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142.208574線3393駅にて

 その寝台特急が、どういうわけか真夜中の駅で停車していたことに気づいたキリウ少年は、あまり深く考えずに外に出てきてしまった。ラジオをつけてもザアザア鳴っているだけでつまらないし、寝直す気にもなれなかったし、列車のドアも開いていたからだ。

 辺りは真っ暗だった。電灯が点いていないことを差し引いても、あまりにも暗く、冷たかった。キリウは列車内から漏れる非常灯の頼りない明かりを遮り、電磁波を放ちながら周囲の様子を探っていく。空が見えないことと、足音が微かに反響することから察するに、この駅は壁と天井で覆われた構造をしているようだった。

 キリウが降りたのは二番線だった。このだだっ広い空間にはふたつのプラットフォームが並んでおり、キリウが立っている方が一・二番線で、向こう側に三・四番線があった。キリウは自分が今いる駅の名前を確認したかったが、なぜか駅名標を見つけることができず、諦めて歩き出した。

 もしかするとこの駅は、一般の乗客が乗り降りするための駅ではなく、一部の権力者が有事の際に使用するための駅なのかもしれない。そんなものが存在するのかどうかはともかく、キリウは面白さ優先で仮説を立てた。そして面白半分に暗闇を凝視し、自分が落とす見えない影とともに、階段を上っていった。

 キリウは暗闇に恐怖を感じる質ではなかった。光の中で誰かと過ごすよりも、暗闇の中で一人きりでいた方が、心穏やかでいられる側面があった。ある人はそれを若さゆえの勘違いだと言い、ある人はそれを単なるフェティシズムの発露だと言ったが、キリウはそのどちらもまるで気にしなかった。

 階段を上りきると、プラットフォームの空間から一転して、低い天井をした通路が現れた。息をすると埃っぽい乾いた空気が鼻をつき、キリウはくしゃみをしそうになった。通路を進み続けて何度か曲がった時、キリウの前にようやく改札口が現れた。

 改札口まで出てきてみても、駅はまったくの無人だった。ここにも窓や非常灯は無く、大気の仄明るさからも見放されたような暗闇が広がっているだけだ。光を求めてひとたびライターの火を灯せば、消したが最後、雪崩れ込む黒に塗りつぶされてしまうだろう。ここは荒れ果てているようでも整然としているようでもあった。キリウは見たことが無い型の自動改札機を飛び越え、勝手に外に出るも、その先の出口はシャッターで塞がれていた。

 駅の周囲の様子が見たいだけなら、ホームから線路に降りて歩いて外に出た方が早いかもしれない。来た道を戻ろうとしたキリウは、ふと、こんなことをしてる間に乗ってきた列車が再び出発してしまったら、という不安に駆られた。そのせいか、キリウは自分が間違えて三・四番線に向かう通路に入ってしまっていたことに、今の今まで気づかなかった。

 ――ホームへと降りる長い階段の先を見て、キリウはぴたりと固まった。奥にオレンジ色の光が見えたからだ。

 その瞬間、キリウは大きながれきの下から引っ張り出された虫のような気持ちになった。先程キリウが一・二番線側に居た時には、そのような光は見えなかったはずだ。キリウが出口を探している間に、何かが現れたのだろうか? 注意深く耳を澄ましてみると、光の向こう側から人の話し声のようなものが聴こえてくる。

 キリウは足音を立てないように、注意深く階段を下りていった。すると、ホーム上の階段から一車両ほど離れたところに、大きな焚火があるのが見えた。それを囲んで座っている、二人の男の姿も。

 ホームの真ん中で煌々と火が燃えているのは、とても奇妙なことのようにキリウの目には映った。厚着をした彼らは辺りに白いがれきを山と積み、何やら話しているようだったが、内容までは分からない。キリウは小走りでそっと距離を詰めると、焼け焦げた自販機の影に身を潜めて、彼らの様子をうかがった。

「一般公募って言葉の中には、パン酵母が隠れてるらしい」

 どちらかの言葉だ。すぐにもう片方が反応する。

「めずらしいな。初めて聞く話だ」

「今考えたからさ。……おい、誰かいるんだろ?」

 あっという間にバレたが、実際、キリウから見えたということは彼らからも見えたということだ。素直に姿を晒したキリウに向かって、一人目の白髪の男が言った。

「くしゃみが聴こえたんでね」

 キリウは自分が本当にくしゃみをしていたのか、していなかったのか、分からなくなった。

 ここからはもちろん一・二番線のプラットフォームが見えた。二番線の列車は、まだ同じところに泊まっていてくれたようだ。けれどキリウにとっては、この大きな焚火と二人の中年が、つい今しがた現れたようには見えないことが気がかりだった。

「どこから入り込んできたんだ? そんな寒そうな恰好して。ここ座ってくれよ」

 二人目のやせぎすの男に手招きされ、キリウは少し警戒しつつも、二人の間に座る。少なくとも彼らは、見える場所にフォークやナイフを置いてはいないようだったからだ。

 その男は落ちくぼんだ目でキリウを見つめ、興味津々といった様子で質問した。

「名前は?」

「キリギリス」でたらめだ。

「そうか。おれは(延滞金)。あっちは(宣伝虫)」

 よく聴き取れなかったが、そんな名前だった。

「キリギリスはどこから来たんだ? そして、どこに行くつもりだ?」

 矢継ぎ早に二人目、もとい延滞金が尋ねてくるので、キリウは早くも疲れを感じ始めていた。この駅に降りてからずっと靄がかっていた脳みそを叩いて、必要な情報を引っ張り出した。――環状線。キリウは環状線から乗り換えてきたのだった。

「ヨンマルク線の……珊瑚駅から」

「へえ。聞いたことない路線だな」

 寝台特急で一本なので、ここからそんなに離れていないはずだとキリウは思っていたが、彼らはその路線の名前を知らないようだった。

 そのとき急に、キリウは一番大事なことを思い出して、逆に質問した。

「ここ、どこですか?」

 延滞金は不思議そうな顔になって答えた。

「ここは208574線の3393駅だ」

「2085……3?」

「208574線の、3393駅」

 思わずキリウが聞き返すと、延滞金は同じ表情のままゆっくりと繰り返した。

 なんて覚えにくい名前だ。つい駅名標を探してキリウが見回すと、今度はすぐ近くで見つかった。見ると、向こうのホームにも同じものがあった。数字しか書かれていなかったせいで、さっきはそれが駅名標だとは気づかなかったようだ。

 しかしそうしてみると、キリウのこめかみに新たな疑問が湧いてくる。こうも変わった名前の路線と駅だったら、なぜ列車の経路を確認していた時にキリウの目に留まらなかったのだろう。キリウはふと、自分たちが間違えて切符を買った可能性を疑って、落ち着かない気持ちになった。

「で、どこに行くんだ? おじいさんは山へ憂さ晴らしに。おばあさんは川へ八つ当たりに。キリギリスは広い世界へ自分探しに?」

 頭をひっかいているキリウを、またしても延滞金がせっつく。

 キリウは何と答えたものか迷った。キリウが行こうとしているのは『あっち』だが、それを言い表すのは難しいし、何をしに行くのかと聞かれるのも困ってしまった。実際のところ、コランダミーを送り届けて、それから? また、ひとりに戻って、あてもなく生きていくのだろうか……。考え込んでいるうちに面倒になってきたキリウの口からは、心にもない答えがこぼれていた。

「大学へ遊びに」

「なんだ。迷子か」

 延滞金はつまらなそうに肩をすくめたが、偶然にも彼が概ね正しい解釈をしてくれたことは、幾分かキリウの救いになった。その通りだ、キリウは迷子なのだ。

 この問答の間、宣伝虫はトングを使って、傍らに積んだ白いがれきのいくつかを赤々と燃える炎の中に放り込んでいた。その度に彼は同じ数だけ焼け焦げたがれきを取り出し、線路に放った。キリウが身体を傾けて線路を覗き込むと、そこには黒くなったがれきが山と積まれていた。

「ここで何をしてるんですか?」

 これ以上自分のことを話したくなかったキリウは、延滞金が次の質問をしてくる前に、オープン・クエスチョンを返した。

 すると延滞金が横に目配せして、今度は宣伝虫が答えた。

「いろいろさ。天気の話をしたり、ゴミを集めたり、モノポリーしたり。太陽のしっぽについて考察したり……ブリッジしてみたり」

 言いながら、宣伝虫は焚き火のそばに置いていたヤカンを手に取り、三つのコップに湯気の立つ液体を注いでいった。コップはてんでんばらばらの形をしており、どれも底が抜けていないだけでぼろぼろだった。彼はその一つをキリウに渡した。

「天気?」

 受け取りながら、キリウは聞き返した。どちらかというとキリウは、彼らが本当に二人でモノポリーをしているのか否かの方が気になったのだが、恐ろしくてとても口に出せなかった。そんな気持ちを知る由もなく、宣伝虫はコップの液体の表面を一口すすり、少し声をひそめる。

「近頃、いよいよ雪が黒くなってきてる。キリギリスも、外を歩いてて見てきただろ」

 今日目覚めてから外を見ていないキリウには、宣伝虫が言っていることの意味が分からなかった。それに、彼らはキリウがあの列車から降りて来たところを見ていないのだろうか。

 キリウは二番線を指さそうとして、でもやめた。向こうのホームからキリウに彼らが見えなかったように、彼らにもあの列車が見えていないような気がしたからだ。べつに宣伝虫もキリウの返事が欲しかったわけではないらしく、話を続けている。

「日に日に衰弱してゆく象の腹の中に居るような感覚。もともと、ここ数年はいくら火を焚いても寒いし、街をうろつく変異体も増えてきていたし。そんなだからか、だんだん二人モノポリーが無性に楽しくなってきた……来年には二人ババ抜きで笑ってるだろうな」

 コップの中身は、変な匂いがするお湯だった。無表情でそれを口にしたキリウを見て、延滞金がニヤリと笑って言った。

「待てよ。キリギリスは太陽を知らない歳じゃないか?」

 キリウはよく考えずに首を横に振った。

「ああ、ごめん。知らないってこたないよな。見たことないかもってだけで――」

 勝手に何かを受信したふうな延滞金を、宣伝虫が遮る。

「戦後生まれの子って、もうこんなに大きくなってたのか! 私らも歳をとるわけだ」

「うるせえな。おい先生、太陽を一度も見ずに育った子供は、気が狂ったときに太陽のしっぽの話をすると思うか? おれの意見では、するね。ただ、電気を太陽に見立ててするんだ。しかも北風が吹くとき、太陽のしっぽは揺れない。電気のしっぽが短くなって見える、という話をするのさ」

「違う見解だな。私としては、あくまで太陽のしっぽの話をすると思うね。人類は無意識の領域に太陽を刷り込まれている。太陽まで含めての――」

「二人は友達ですか?」

 藪から棒にキリウが尋ねると、二人の中年は互いを見合った。

「どうだろうな。199565線にクアッドリウム爆弾が落ちた時、おれはこの駅にいた通勤客のひとりで、(宣伝虫)は駅員だった」

「こいつは列車が止まったからって、私にしこたま当たり散らしたんだぞ」

「見ろよ。ずっと根に持たれてるんだ」延滞金が宣伝虫を肘で指した。

「共通項と言えば、天涯孤独ってことと、ロマンチストだってことと、90年代の映画が好きってことくらいのものさ。思い出すね。(延滞金)と私のどちらかでも、急いで帰るべき家があったなら、この腐れ縁は無かっただろう。昨日も『メトロ2033』とか『太陽を呑み込んだ男』の話をずっとしていたよ」

 彼らの言葉の端々から、キリウはなんとなくこの状況を察することができた。ようするに――夢なのだ。

「キリギリスは一人か? 神の存在を信じてるか?」

 今更ながら、キリウは適当に名乗ったことを後悔していた。こんなに呼んでもらえるならば、正しい名前を教えればよかった。

「友達がいます。俺、戻らなきゃ」

 二つ目の質問には答えなかった。その場を立ったキリウを、二人の男は黙って見ていた。

 空になったコップを宣伝虫に返したとき、ふいにキリウは何かを思い出して、服のポッケを全部ひっくり返した。二人に渡したいものがあったことを思い出したのだ。しかし転がり出てきたのは豆電球、粉ゼラチン、入浴剤、MD、壊れた知恵の輪、交通安全のお守り……。

 ようやく次元の狭間から引っ張り出した鰹節の大袋を、キリウは宣伝虫に差し出した。

「あの……あげます」

 寄ってきた延滞金がパッケージに目を近づけて、それをまじまじと見た。

「何語だ、これ」

「この世に未開封の鰹節が残ってたなんて。いいのか?」

 キリウは宣伝虫に無言で頷くと、足元にとっ散らかしたものを放置したまま踵を返した。そして、自分が居るべき場所へと駆け足で戻っていった。

 一段飛ばしで少年が階段を上っていく足音を聴きながら、延滞金がつぶやいた。

「どうでもいいけど『太陽を呑み込んだ男』って、9A0年を過ぎてからの映画じゃなかったか?」

「そうだっけ? まあ、どうでもいいことだろう」

 宣伝虫が再びトングを手に取る。使われなくなって久しい線路の上に、またひとつ、真っ黒に焼けたがれきの欠片が放られた。