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138.Issue: 空色の定義が時間帯と連動しない

 独りきりなのにどうしても照れくさい時、瞳はたぶん空にある。お天道様とかお月様が、いまどき信じられないくらい配慮に欠けた視線を君に注いでいる。厚かましい視線恐怖症の君は叫ぶ「見られるのが嫌な人の気持ちも考えて」。空の瞳は電波を送ってくる「見られたくないなら生まれてこなきゃいいのに」。勇気のない君は太陽を討とうともせず、月に穴を開けようともせず、なんなら自分をぶち抜くことすらせず、文句を言いながら見つめられ続けている……。

 あの子が業務時間内に山積みのラブレターの返事を書いている時、キリウ少年もまた半日かけてラジオ番組あてのメッセージを書いているのだ。

 朝から推敲と逆ギレを繰り返して腐り切っていたそのメモを、キリウはついに握り潰してポッケに突っ込む。考え抜いたはずのそれを手元に、キリウがダウンタウンの片隅で公衆送信機のキーを叩き始めたのが十分前。叩き直し続けて十分後の今、彼は使い捨てのメッセージカードを抜き取り、ため息をついている。結局、壁いっぱいの落書きに赤ペンで一筆付け足し、キリウはそこを立ち去る。

 きらびやかな真夜中の人波を抜けて向かう先は地獄だ。もっとも、この世の全ての道は地獄に通じていた。そしてもっぱら、カステラで舗装されていた。生臭いほどの卵の香りの中、カカトを下ろすたびに蛆虫が湧き出す粘着質な生地の上を、徒歩で地獄に向かわされる。それ自体が一種の地獄なのだ。

 新しい靴紐の結び方を考えなきゃ。焦燥に急かされるように歩くキリウは、明示的な自己嫌悪に苛まれている。その少年は好きなラジオ番組に、今夜もわけのわからないメッセージを送りつけそうになっていたことを恥じている。送ったあとでメッセージが読み上げられなかったら安心するくらいに、けれどメッセージがラジオD.J.の目に入ったかもしれないことを不安するくらいに、近頃の彼は有害になっている。

 だめよアンタ、内容が無いんだから、雰囲気くらい良くしとき。――遠い昔、そう言った女はすでに四人の夫を食い殺していたが、原稿を破り捨てて泣きじゃくるキリウの頭を撫でてくれた。

 片栗粉をまぶされて可哀想だから――と、兵隊さんもブラックフォーマルを買ってくれようとした。

 なんならプラネタリウムに連れて行ってあげるから、君の魂をネットオークションにかけよう――死神ですら、キリウがひき肉機にかけられる前には取引を持ちかけてくれた。

 なのにキリウときたら、何一つその前後の記憶が残ってない。

 優しさを与えられるままに受け入れられないのは、キリウの青さに過ぎないのだろうか。眠ることを知らない人通りの中、キリウは悪目立ちする空色の髪を隠すように、買ったばかりの帽子を目深にかぶり直す。幻覚の白い虫たちが邪魔なせいで、キリウにはろくに他人の見分けがつかないのに、みんなは青い髪に赤い瞳をした挙動不審な少年を一目で覚えてしまう。

 こないだ会った海辺育ちの人が言ってた。「おれ、ヤドカリみたいにカタツムリも殻を換えれると思ってたから、かっこいい殻をあげたくて、いまの殻から出してやろうとしたんだよ」屋台の湯気で曇った眼鏡。彼は会社の金を持ち逃げしている最中だったくせに、キリウに勘定を押し付けて去って行った。

 さっきネットカフェで相席になって手相を見てくれた人が言ってた。「兄ちゃん、頭悪そうな生命線してるな」曰く、キリウは千年前に死んでて、鉄分とパントテン酸とトリコベゾアールが不足してて、運命はいつも向こうから歩いてくるらしい。彼は隙あらばキリウに壷を売りつけようとしたり、幼少時代の辛い思い出を喋りたがったりしていた。

 メレンゲ安いよ!

 爪切りが実質ゼロ円!

 今なら裾上げ放題!

 行きか帰りかも分からない人々を呼び込む声が途切れない。裾上げは服屋だ。おとといの明け方頃にキリウが店の裏に行ったら、疲れ目をした従業員が朝食を片手に座り込んで、切り落とされた裾をハトに与えていた。この時期のハトは巣の材料を探しているし、ハトはこの街を汚してくれるからだと彼は言っていた。

 それはこの生まれ落ちた世界への、彼なりの抵抗なのだ。

 街には生きてる人が多い。

 帰るべき場所に帰ろうとしていたキリウは、一本曲がって一回り狭い通りに入る。そこに佇む眠らない喫茶店のガラス窓の奥には、コーヒーカップを傍らにひとり文庫本を読んでいる女。彼女は一瞬だけ向けられたキリウの視線に気づき、それを躱すようにそっと姿勢を変える。決して邪魔をするつもりは無かったのに……気まずさにキリウの歩調は自然と速くなる。

 そうしてろくに前も見ずに歩いてたから、うっかりキリウは通行人にぶつかる。

「あ、ごめんなさい」

「いえいえ……」

 なんでか相手の男までぺこぺこするせいで、どっちがどっちのせりふか分からない。互いに足早にすれ違おうとするが、ふとキリウの背格好を見た男が立ち止まり、不審げな声色になってキリウを呼び止める。

「あれ、ちょっと、キミ」

 言われるが早いかキリウが駆け出していたので、キリウの肩を掴もうとした男の手は空振った。ただそれだけで、男の中で何らかの疑惑が確信に変わった――その瞬間を見ていた者は誰もいない。

 裏返った声で叫ぶ男を遠くに、キリウはひたすら走る。男が何者であったかを思い出したわけではない。だいいち男の頭には白い虫がたかっていて、誰だかなんて分かりゃしない。ただただキリウには心当たりが数え切れないほどあったし、例え何も無かったとしても、逃げないに越したことはないというだけだった。

 深夜の街を走り抜けながらキリウは、もし自分のほかに空色の髪の少年がいる街を見つけたら、その街でだけはまっとうに生きてみようと思った。