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137.ミッチェル君

 この広大な世界には、実に様々な街が存在します。例えば、電波塔が三本見える街。電波塔が十本見える街。なかんずく、電波塔が至る所に立っている街などです。おや、あなたの街からは電波塔が見えませんか? けれど、ご心配には及びません。電波塔の多い少ないに関わらず、全能なる神の愛はこの世の全ての存在に等しくりりすくくものですからね。生きとし生けるものどころか、この世の偏平足に! 1ピコの有意差も無く、平等にりりすくく愛が! 今日も明日も遠宴に、あなたと家族の健康で献滅的な生活を支援します。今ならミョ回半額キャンペーン実施中だぎゃあ! お申し込みはアドレス*******まで。

 白昼夢かもしれない。ラジオを耳元に公園のベンチに寝転がったまま、傾いた太陽を手のひらに受けているキリウ少年がいた。

 このまま寝てしまいそうだった。べつにそれでもいいのだ。キリウは布団の上でさえなければ、どこででも寝られる生き物だ。けれどコランダミーを地べたに寝かせたくない意地もあったので、やはりどこかしら泊まるところを探さなければならなくもあった。

 ああ……でも。キリウは重たい目元に温まった手を当てる。眠くてたまらなかった。それは寝不足だけでなく、この街の薄汚い雰囲気にも大いに起因するものだった。路のどこで人が寝ていてもおかしくない、ひどくルーズな雰囲気に。

 電波塔が見えない街ってのはどこも似たようなもので、往々にしてキリウはそういう街に居ると妙に安心するのだ。前世がフナムシだから?

 そんなキリウの左手には大きな咬み傷がある。飼い犬に咬まれたのならむしろ興奮するくらいの、親指から中指に渡る酷い傷だったが、あいにくトランがつけたものではない。トランの歯並びはこんなものじゃ済まないし、何より今のトランはキリウに咬みついてすらこない。

 ある意味ではそのせいで――これはキリウが自分で咬んだのだ。あの院内薬局の窓口で。

 それにしても、物言わぬ隣人に嫌われた程度でこんなにショックを受けているほどヤワなのなら、いっそキリウはあの場で勧められるままに『精神的自立』の薬を飲むべきだったのだ。キリウはもともと己がトランに好かれているなどとは夢にも思っておらず、時にはそれをセールストークにすらしていたのに、咬みつかれるだけまだ嫌われてはいなかったのだと知ってしまった今や、瓦解した自我を枕に詰めて濡らしても足りないくらいの情緒不安定に陥っていた。平たく言うと、人語が通じない生き物と仲直りできる自信が全く無かったのだ。

 ラジオの向こうから流れて来るのは夕方のニュースの落ち着いた声。金の貸し借りが人が死んでるような……どうしょうもない事件、事故、自暴自棄。他の答えがあったはずなのに。

 その時ふと、キリウの上に人の影がさした。キリウが光を遮られた虫よろしく跳ね起きて見ると、そこに立っていたのは両目が無い少年だった。

 ――やっぱり無い。ぜったい無い。ぽっかりと黒く窪んだ二つの眼窩に見据えられて、キリウはしばし時が止まったように感じていた。キリウは最初に、これが夢であるかどうかを考えた。あまりにもそんなのが多すぎるからだ。けれど今日は多分違うだろう。なぜならまだ、ラジオの声の意味が解るからだ。

 度重なる悪夢の住人との邂逅を経て、キリウが発見した夢と現実との境界を探るひとつの方法がそれだった。どこかの誰かのものであるはずの声が、気づけば不気味にがらんどうになっていて、よくよく聴いてみると辞書にあるような無いような言葉を羅列している……その時、キリウはいつも夢の中にいる。もっとも看過したところで勝率は五割に満たないので、大抵はカラメルソースのふりでもしていた方がマシなのだが。

 ぴたりと固まって見つめ合ったまま、先に沈黙を破ったのは『彼』のほうだった。

「お金ちょうだいよ」

 言いながら手を差し出してきた少年の所作に、キリウからにょろりと力が抜けた。

 こうして眺めると彼はキリウよりもひと回り半ほど幼く見えたが、単なる発育不良のようでもあった。伸びきったぼさぼさの髪、上から下までオーバーサイズ気味の装い、ガチャガチャのカプセルでも吊るしてるような丸い首飾り。そのすべてが、この街のエッセンスを吸っては干してを繰り返した雑巾みたいだった。

 キリウが動かないでいると、彼はさらに一歩前に出て、自分の目を指差して続けた。

「オレのこの目が見えるか?」

「見える」

 うっかりキリウは答えた。聞かれたら答えたくなる心理だ。

「だろ。オレには見えないんだ」

 掴みのトークかよ。

「お菓子しか無い」キリウの嘘。

「じゃあ、それでいいからくれ」

 また突き出された手のひらに、キリウはエコバッグから引っ張り出した個包装のマカロンを置いた。先走って握り返してきた少年の指は、脂っけのある埃でべたべたして、チョコレートだったなら拒否するほどに熱かった。

 彼は首を傾げながらそれを撫で回していたが、やがてぶかぶかのズボンのポッケに押し込む。そして大きな口でにんまり笑って、キリウに礼を言った。

「ありがとな、旦那」

 しかしキリウはこの時、踵を返した彼の背をなぜか呼び止めていた。

「ねえ、もうちょっとお喋りしよ」

 キリウ自身はそれを単なる気まぐれだと思っていたが、実際、キリウは誰でもいいから知らない人と猛烈に話したい気分だったのだ。ただ、その自覚がまったく無かっただけで。

 彼――後から知ったところによるとミッチェル君――は、二つの穴が空いた顔をゆっくりとキリウに向けた。少し迷った様子だったが、キリウが「もう一個お菓子あげるから」と付け足すと、ひょこひょこ戻ってきてキリウの隣に座った。

「あんた何歳?」

 さっそくキリウが尋ねると、ミッチェル君はさっきのマカロンの袋をいそいそ破りながら答えてくれた。

「十四」

「おんなじだ。なんで目が無いの?」

「赤ん坊の頃に母親がつぶしたんだ。哀れな子供がいると都合が良い商売だったんだ」

「すごいな。それで、家出したの?」

「よく分かったな。今は似たような奴らと……」

 三行前で大き目のマカロンを一口かじっていた彼は、渋い顔になって言いよどんだ。

「くそ甘い。なんだ、これ」

 キリウが謎のポーズをとりながら「マカロン」とだけ答えると、ミッチェル君は幾許か逡巡したあと、食べかけのそれをポッケに仕舞いなおして呟いた。

「もう一個はほかのお菓子がいい」

 まあ、育ち盛りだしな。仕方なしにキリウは、鳥にあげようと思っていたポン菓子を取り出してミッチェル君に渡した。こういうのは相手が欲しいものをあげなければ意味が無いのだ。

「ありがとう」

 律儀にまた礼を言いながら、やはりそれを開封し始めるミッチェル君。袋にぱんぱんに詰まっていたせいでこぼれた一握りが、結果的に鳥の餌になり、大地を潤すだろう。そしてミッチェル君が先程の話の続きをしてくれる気配が無いので、キリウは別の質問をすることにした。

「ここら辺で、どっか泊まれるとこ知らない?」

 するとミッチェル君は意外そうにまぶたを見開いて、いま二人が座っているベンチを指さして言った。

「ここだ。旦那、ここ使うんだろ」

 コーヒーこぼしたような歌声。いつの間にか音楽番組に切り替わっていたラジオを消して、キリウは笑い混じりに否定する。

「ちがうよ。俺、旅人で、女の子と一緒なんだ。だから外じゃないとこ探してるの」

「んー……難しいな。ここらへんじゃ、外のほうが安全なくらいだ。駅前で探したほうが良いだろう」

 ポン菓子を口に詰め込んだままモサモサと頭をひねるミッチェル君は、どこか漫画的だった。彼は眼球が無くてもずいぶんと表情豊かな印象を相手に与えるもので、それが彼の意図するところであるかはともかく、ふてぶてしいくらいだった。

 彼の言うことが本当なら、キリウはこの後の予定をもっとまじめに考えるべきだろう。けれどそれよりキリウは、ミッチェル君の言葉を反芻していて、はたと浮かんだ疑問を口走っていた。

「あんた、俺がここで寝る人だと思ったのに、たかりにきたのか? 持ってるわけないじゃん」

 唐突に蒸し返すようなキリウの態度に嫌な顔をすることもなく、ミッチェル君はひょうひょうと、あるいはぬけぬけと答えた。

「旦那はずいぶん訛ってるし、ニオイが明らかにこの街の餓鬼ではない。旅行者なら何か持ってるはずだからな」

「とはいえ、何処の豚の餌かも分かんない餓鬼だろ。その菓子だって出所不明だし、なんで俺みたいなのがマカロン持ってんのさ? 意地悪されたらどうすんだよ。こーゆーのは相手を選ばないと……」

 実はこの時キリウは、自分がどこかの街でミッチェル君と同じような生活をしていた時のことを思い出して、妙なテンションに引っ張られかけていたのだ。

 しかし早口にまくし立て始めたキリウの目の前に、ぴたりとミッチェル君の手のひらが突き付けられたことで、それは中断された。ミッチェル君は今日初めて困惑した表情を浮かべて、むしろキリウを諭すような口調になって続けてきた。

「旦那、不思議ちゃんか? 何か嫌なことでもあったのか? じっさい、あんたはオレにものをくれただろ。そりゃあ蹴っ飛ばされることもあるけど、なんてゆうか、世界には優しい人が多いもんだ」

 ミッチェル君のその言葉を耳に入れた瞬間、キリウの頭の中に夢で見た映像が弾ける。赤いゼリーのパックが山積みにされた机――ソファの代わりに巨大な牛の死体をあしらった待合室――その手のポスターでいっぱいの壁――狂気を抱いた青年の瞳。『キリウ君が思ってるより、世界というのは優しいものかもしれないよ。』

 キリウの膝の上でラジオが真っ二つに割れるとともに、キリウの頭も割れそうになった。左手の傷がひきつり、かさぶたが痒くなる感覚。けれどこんなところで頭が割れるわけにもいかないので、キリウは頭のネジを一本抜いてごまかした。そんな不審な動きをしたキリウを、探りを入れるような目で見るミッチェル君。ミッチェル君。

 見?

 そう、見たのだ。明瞭な誰かの視線を受信したキリウは、いま思い出した薬局の光景を完全に忘れて、はっと顔を上げてミッチェル君を見た。でもそれは彼の目元じゃなくて……たぶん。

 ミッチェル君に阻まれるより早くキリウは手を伸ばして、彼が首に下げていた大きな球体を掴んだ。つるつるしたそれは目ん玉のモチーフで、中央にきょろきょろする紫色の瞳――カメラのようなものが嵌まっていた。

 キリウが覗き込むと、そいつはキリウを覗き返してきた。内側で微かな振動と機械音が発された。

「治験のバイトでもらったキカイの目玉だ。わりと見えてる」

 言ったのはミッチェル君だ。彼はどこか開き直った素振りをしつつ、キリウに見せるように首飾りの紐を引っ張る。それは内側にケーブルが通っているために容易に形が崩れず、さらにミッチェル君の首の後ろの接続口を通じて、彼の視神経に球体を接続しているらしかった。

 キリウは握りつぶさんばかりに彼の『目玉』を捕まえたまま、そして身体を入れて彼の抵抗を捌きながら、刺すような目でそれを睨んで声を荒げた。

「お菓子返せよ。両目が無いから、大変そうだと思ってあげたのに」

「ごちそうさん。じっさい、両目は無いし大変だ。何より醜い見てくれのせいで、どいつもこいつも悪夢のような目でオレを見る」

「当てつけか? 見えてんなら無効だよ! バレないようにやれよ、ばか」

「バカって言ったか? オレはバラしてないし、あんたが勝手に気づいただけだろ! おい旦那、そろそろ離してくれや。あんまり目を見つめられると、ちょっと……けっこう……恥ずかしい」

「せいぜい恥ずかしい思いをしろ。あんたの目を見つめてる俺も、同じくらい恥ずかしいんだ!」

 世界には優しい人が多い――。キリウがブン殴る代わりに『これ』で済ましていることを察したミッチェル君は、この後も日が暮れるまで、さんざん見つめられ続ける羽目になった。

 終わったころにはミッチェル君は顔を真っ赤に染めて、泣きべそをかいていた。目が無くてもそうだと分かるくらいには。でもキリウも同じくらい……いや、もういいや。ほんと。