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129.夜行列車の夢

 キリウ少年は……キリウ少年だった。

 トマトの汁で赤く染まった紐が傷ついたノドを撫でている。自分の内側から溢れ出す液体に溺れながら、キリウは白と黒のごつごつした地面を引っかいていた。むせ返るトマトの青臭さが身体の中と外のどちらからしているのか分からない。たぶん両方、そうでなければどちらでもなく、あるいは脳みそからかもしれない。

 三たび、誰かの手が現れてキリウの身体を掴んだ。今のキリウはザリガニでも魚でもないのに、その手はまだ大きく見えた。暴れるキリウを押しつぶしそうな、白くて柔らかくて冷たい指。子供が虫で遊ぶみたいに首根っこを摘ままれて、キリウはまた口の中から、クレーンのフックのような釣り針を引きずり出されている。楽に殺してくれそうもない危なっかしい手つき。ようやく出てきた針の返しにたっぷりぶら下がったトマトの種は、臓物に似ていた。咳き込んだキリウの裂けた口から赤い汁がこぼれた。

 コランダミー、罪深いキリウを捌こうとするコランダミー。ぐったりしたキリウを地面に押さえつけた彼女は、もう片手に普段使いのナイフを握っている。その切っ先がキリウの腹に当てられていた。何やってるんだよ、先にシメるんだよ、おい。

 腹の内側でゴリッと音がして、暗転。

 

 

 気がつくとキリウは、深い眠りに沈む夜行列車の席で、ただひとり目を開けていた。ウジャウジャいるはずの白い虫たちですら、一匹残らず身を潜めて眠りに就いている真ん中で。

 キリウは手に持った新聞の二面記事を見つめていた――ようだ。――出発する前に駅で買った、燃やす以外に使い道のない新聞だ。見出しは『つつじ園陥没 児童2人軽傷』。大規模な陥没事故に、ツツジの蜜を吸っていた子供たちが巻き込まれたのだという。原因は鋭意調査中とのこと。

 添えられた写真に写っていたのは、あの夢のトマトが落ちた庭園だった。花の色も形も違えど周囲の様子が酷似しているし、遠景に写り込んでいる建物は最後にキリウが立っていた場所だった。

 ……偶然? 偶然だとして……。

 それじゃ、コランダミーに手相を見てもらったのも夢? ザリガニの夢を見て、変な気分になったのは? いま新聞を見ているのは現実? そもそも現実って、何? 寝ている間に見る夢ではないこと? でもキリウは起きていても、現実ではないものを見ている。

 まさかキリウの心を揺さぶるために、誰かがキリウの夢を覗き見て、こんな事故を起こしたのだとでもいうのだろうか。そうでもなきゃ、なんで平和なツツジ園に悪魔がやってきて、地獄の眷属と祭りを始めるんだ。やめてくれよ。厳しいよ。足が十本生えてきて、夜通し這いずり回りそうだよ。脳の内側から白い虫が湧いてきて、頭が破裂しそうだよ。

 だんだんキリウは分からなくなってきた。もともと分からなかったが、もっと分からなくなった。そして現実的なアプローチをするために、辞書(スーパー大辞林3.0)で『現実』を引いた。

『現に事実として与えられていること。また、そのもの』

 事実だって。事実が事実だと判るなら、こんなことを気にしたりしない。頭の代わりに辞書が破裂して、紙吹雪になった。

 キリウがこうしてコランダミーとずっと列車に乗ってきたこと、これが事実だとどうして言い切れよう。キリウが忘れてしまった昨日が在ったことをどうして証明できよう。結局のところキリウは、自分の目に映るものが信じられないし、愛せないのだ。そのどちらかでもできたなら、『全てが現実であろうとなかろうと関係ないのだから』。それができないのはキリウの弱さなのだ。

 そして――自分の目に映るものを心の底では信じていないくせに、同時に心の底から愛していた一人の少年を、キリウは知っていた。この瞬間にキリウは何かを理解した。それが『彼』なりの突っ張り方であり、セカイとの折り合いのつけ方でもあったのだとしたら……果たしてキリウに同じことができるのだろうか?

 できない今は、キリウはボックス席の向かいでシートに身体を横たえて眠っているコランダミーがひたすら怖かった。彼女の背中からまた天使の翼が生えてきたらと思うと、気が気でなかった。彼女の人形のような顔を直視できなかった。もしポッケに手を入れて、屋上で拾った彼女のガラス玉の眼球がまだそこに在ったなら、キリウは彼女のまぶたをこじ開けて、それを嵌め込んでやらなければならない。そうしなければ、やがて目を覚ました彼女は顔にぽっかり空いた二つの穴でキリウを見つめるに違いない。

 おかしい。キリウはおかしくなってしまったのか。胸の中で心臓が動くのが気持ち悪い。耳から視神経が飛び出しそうだった。ひとりで列車に揺られていると、キリウは嫌なことばかり考えてしまう。

 そうして、いつの間にか強く握っていた新聞紙を思わず破り捨てそうになった時、足元で何かがモゾッと動いた。見ると、たぬき寝入りをやめたトランだった。ほかに目を開けている者がいない車内で、トランの赤い瞳はひどく懐かしく感じられた。

 トランを抱き上げようとして伸ばしたキリウの手は、にべもなく引っかかれた。赤くなって熱を持ち始めた傷の気配に引っ張られて、ふいにキリウはノドの奥が傷が痛んだ気がした。そんなものは無いのにだ。けれどそれが存在しないことをキリウが自分で確かめることもまた難しいのだ。

 ふと、キリウは目を覚ましたみたいに窓の外を見た。真っ暗闇だった。月のない空の下、白いがれきは夜の海に沈んでしまったかのように一片残らず姿を消していた。列車の明かりに潰されて、星空も見えず、薄っすらとした大気光に覆われた闇があるだけ……。

 まだキリウは夢を見てるのか? 闇の向こうに引っ張られそうなキリウを、爪先に触れるトランの身じろぎが辛うじて繋ぎ止めている、この現実。