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119.どこにも行けない僕たちは

 雨を避けて飛び込んだ真夜中のバス停で、キリウ少年は抱えてきた大きな旅行鞄をえいやと開けた。中には彼の友達のコランダミーが小さく身体をたたんで詰め込まれていた。こんな狭いところに人が入るのかとキリウは感心したが、それはたぶん嘘だ。実際にはキリウ自身も、詰め込んだり詰め込まれたりしたことが無いわけがないからだ。

「コランダミー」

 呼びかけて、彼は瞼を閉じている彼女の顔を指で軽く叩いた。その少女の白いほっぺは相変わらずひんやりとしていて、ナイフで切り取ってサラダに乗せたくなるような風合いだった。

 彼女は何事も無かったかのように目を覚まし、大きな水色の瞳を動かしてキリウを見た。

「キリウちゃん」

「ごめん」

 頭を下げたキリウをよそに、コランダミーはむくりと起き上がって辺りを見回した。彼女は、キリウと脱法プラモデルの取引で揉めていた者たちに、値下げ交渉をする目的で連れ去られていたのだ。間違えて入った夜の枝毛裂きパーティー会場で、メビウスの輪の実演タイムに夢中になっていたところを鞄に詰め込まれて。

 そうして川沿いの駐車場に呼び出されたキリウが、たまたまコンクリートブロックを撃ち出す兵器を持っていたからどうにかなったものの、一歩間違えればコランダミーは夢の国へ売られていたに違いない。

 ……。

 と、思うか?

 キリウは額を伝ってきた水滴をぐしゃぐしゃ払った。そして呆けてるコランダミーの横顔に向かって、だいぶ気後れして言った。

「俺、コランダミーに迷惑かけてる。コランダミーはひとりでも」

 まったく平気なのではないかと。今日だって、最悪キリウがあいつらに惨殺されて犬とかに食わされたとしても、コランダミーは放っておけば一人で抜け出してきたのではないかと。

 コランダミーとの旅は、振り返ってみるとそんなことばかりのようにキリウには思えたのだ。芋と一緒に焼かれかけた時も、面白半分でゾンビがいる地下道に閉じ込められた時も、巨大な遺失物取扱所に迷い込んで存在自体が遺失物になりかけた時も。彼女は誰かが見てあげたほうが良いようで、誰も見ていなくてもなんともない。一夜明ければ文明が滅んだことも諦めて生きていける奇妙なたくましさを、キリウはこの止んごとなき少女に見始めていた。

 しかしコランダミーは本当に心外そうな表情になって、キリウの顔を覗き込んで言うのだ。

「キリウちゃんといっしょがいい」

 ――湿気た空気がいやに罪の味がするのは、切れた唇のせいだけではないだろう。いま、暗がりでコランダミーにガラス玉のような透き通る瞳で見つめられると、キリウは心臓の表面を死にかけの芋虫が這っているような気分になった。そこに映る自分の影が揺れるのが分かるくらいに近づかれるのも、合わせ鏡に挟まれるより落ち着かなくて苦しかった。

「あ……りがとう」

「ん~ん」

 目線を避けて俯いたキリウの濡れた頭を、コランダミーの小さな手が撫でる。子供が子供にするような優しくてぞんざいな感触に、否応なく泣きそうになってしまう自分自身をキリウは恥じた。強烈におかしな気持ちだったのだ。こんなことを何度も繰り返したら、本当に自分はダメ人間になってしまうとキリウは思った。

 しかもそれはきっとキリウだけでなく誰でも同じで、けれどそれを受け入れるか受け入れないかだけの違いなのだ。何の意味も無いキリウがいまさら迷ったり暴れたりしているのは、仕合わせを認めることを拒否しているにすぎないのだろうか。

 やがて夜中だというのにバスが来て、中から煌びやかな服をまとった酔っ払いたちが出てきた。またひとつ秘密のパーティーが終わったのだろう。彼らはキリウとコランダミーを目に入れることもなく、次々と傘を開いて、挨拶をしながら雨の中へと散っていく。何度目だ、キリウがこんな景色を見るのは。乗り降りするための場所で、乗りも降りもせずぼんやりしている……行くところも帰るところもなく、立ち止まって周りを見ているときだ。キリウは独りでそれをしていてもなんとも思わなかったが、今日だけは少し不安になった。

 その一方で、鞄の中に座ったままだったコランダミーが立ち上がり、もとの形に戻ろうとしている。むーむー唸りながら細い手足を伸ばしている彼女に、キリウはずっと聞かなかったことを尋ねてしまった。

「『あっち』には何があるの?」

 コランダミーは人形のような顔のまま、すぐに答えた。

「神様がいるの」

 聞いてはみたものの、何の答えも想像していなかった少年は、変な笑いを浮かべて聞き返した。

「この世に神様がいるって?」

「…………」

 何より神様が実在するなら、コランダミーは天使ということが確定してしまうとキリウは思ったのだ。それはよろしくない! しかし彼女は、キリウの目をじっと見て動かなくなってしまった。これもまた、例のよくわからないタイミングで考え込む癖だろうか。

 そうキリウが思ったとき、嵐じみた風がびゅうと鳴った。

「あ!」

 声を上げたのはコランダミーの方だった。吹き込んできた雨よりも、彼女がすばやく伸ばした手にキリウが咄嗟に身をすくめた瞬間、大きめの虫がキリウの頭の上から転げ落ちてきて顔に張り付いた。

 うぅあ、と引っぺがした虫をキリウは見た。緑色のきらきらした胴体に、とげとげの脚を振り回している昆虫だった。白くもなく三角でもなく、キリウと同じように雨を避けて飛び込んできたのであろう、今を生きる普通の虫だった。

 貸して貸してと飛びついてくるコランダミーの手に、キリウはその虫を乗せてやる。天使のような少女は手の甲に回って逃れようとする虫の脚を優しく摘まみ上げ、ぶらーんとして喜んだ。そして彼女はなお笑って言うのだ。

「神様はいるよ、キリウちゃん」

 吊るされてバタバタもがく虫の姿に、キリウは無意識に自分を重ねていた。それにしても、彼女と同じ虫を見ていることに、こんなにも安心するとは思いもしなかった。