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115.トマトマ桃源郷

 とある街にキリウ少年が滞在していた時の話だ。

 とても人に言えない経緯で大きめのプチトマトをたくさん手に入れたキリウは、その日、朝からプチトマト弁当を売っていた。プチトマト弁当というのは、プチトマトたくさんとウサギのたまご、塩、ロマネスコ、ヘンプオイル、土鳩、ビスケット等が入っている弁当だ。もちろんそれは表向きの話で、最終的には表裏で合わせて一線を三回越えたせいで、ランチタイム前に地域の消防団に殺されかけた。

 やけくそになった彼は赤ずきんをかぶり、余ったプチトマトをめちゃくちゃかわいいバスケットに詰めて、河川敷に出かけた。妖精のふりをして、河原でパーティーをしている人たちに買ってもらうことにしたのだ。

 頭湧いてんのかクソバカと内心では彼自身も苦しんでいたが、これがどういうわけか妙に売れたのである。しかも買ってくれたのはパーティーのパの字も弾けぬ釣り人ばかりで、ひとつだけ買っていく人すらいた。おやつにしては少なすぎるだろう。

 このままでは眠れなくなると判断したキリウは、ついに一人で釣ってるオヤジにこっそり近づき、正体を明かして理由を尋ねてみた。

 ――ここまでテスト範囲。

「……あ」

 そんなこんなでキリウは……引き上げた糸の先にぶら下がっていた大きな生き物を虫だと思った。そっと地面に下ろしてみると、そいつはキリウの靴よりも大きかった。キリウはその青灰色の身体に手を伸ばしかけたが、両腕のハサミに指をかすめられて引っ込めた。

「ザリガニ触ったことねえのか」

 件のオヤジがからかうように笑った。彼はこの河川敷で暮らしている中年で、キリウが妖精ではないことを知ってもノーコメントだったが、単なるバカだと分かるとこうしてフレンドリーに接してくれた。

 キリウが無言のまま眺めていると、そいつ――地上に引きずり出されたザリガニは、灰色の砂埃が立つ水の中へとバタバタ戻っていった。実際のところ、キリウはザリガニを触るどころか見たこともなかったのだ。

 一方で、オヤジの釣り竿に当たりがあった。オヤジはやっとこ引き寄せた獲物をタモ網ですくい、得意顔でキリウに見せてきた。

「ほらな」

 きらきらした灰色の、これまた大きな魚が気怠げに網の中で動いていた。オヤジは荒れた手でそいつを押さえると、素早く頭にナイフを突き刺して命を奪った。続けて鰓蓋に刃先を突っ込み、どばっと赤黒い液体があふれ出した瞬間、キリウは無意識に目を逸らした。オヤジがまた笑ったが、キリウは自分が目を逸らしたことにその時初めて気づいたのだ。

「まあ、今どき、あえてトマト使うかってえと……」

 オヤジにエラを引っぱり出されている魚の口から、ひっかかっていたプチトマトのヘタが転がり出る。キリウは片手に握ったままの棒を見た。その端に結びつけられた紐の先に、ザリガニが食べ残したプチトマトの残骸がこびりついていた。

 ――オヤジいわく、この街のアングラーの間で餌にプチトマトを使うのが流行った時期があったのだそうだ。今ではバブルの名残といったところだが、目の前でバラ売りされたらなんとなく買っちゃう人も多かろう、との見立てらしい。

 その話を聞いて挙動不審になったキリウに、ザリガニ釣りをやらせたのもオヤジだ。オヤジはキリウに拾ってこさせたプラスチックの棒と紐でザリガニ釣りの道具を作ってくれたが、「重りをつけるといい」と言って、キリウの頭のネジを勝手に一本抜いて使ってしまった。あとはしっかりしたプチトマトに切り込みを入れて紐で縛れば、ほら……。

 キリウはふたたびプチトマトを仕掛け、川の手前の方にそっと落とした。そしてふいに言った。

「どこから来るの?」

 オヤジは濁った川の水でゆすいだ魚の身をバケツに放り込みながら聞き返した。

「何が?」

「魚」

 赤く染まったバケツの水の上で、オヤジがうすら笑いを浮かべて答えた。

「川上の方だろ。少年、見てきたんだろ」

 キリウはでたらめに頷いた。

 世間話の中で、キリウは自分が遠くから列車に乗って来たことを、この見ず知らずのオヤジに喋っていたのだ。オヤジはキリウが根っからの根無し草だと知って喜びこそすれ、それ以外のことには全く興味が無いようだった。

 しかし一口に川上と言っても、キリウはもう年単位で同じ川の近くを下ってきたはずだった。コランダミーが言う『あっち』方面に向かう線路と川の向きが一致しており、時折離れることはあっても川沿いに街がほとんど途切れなかったために、無数の路線を乗り継ぎながらここまで来ることができたのだ。

 同じ川でも、見る場所によって表情が違うことをキリウは発見していた。十個前の街でキリウが落ちた川はピンク色だったし、幅が広くてゆったり流れているこの街の川と違い、もっと流れが速くて危険だった。そんな長大な川から何千回もくみ上げてはキレイにしてを繰り返していたら……上の方と下の方の水は、まったくの別物になっているんじゃないか?

 もっともそれは、この世界の万事に言えることでもあった。

「一生ずっと流れてるの? いつ寝てるの? 魚」

「オレは魚博士じゃねえぞ」

 オヤジは緩みっぱなしの頬をして、キリウのバスケットからプチトマトを勝手に取って食っていた(厄介なタイプだ)。

 糸の先に重みを感じてキリウが引っぱり上げると、案の定、はらわたが飛び出したプチトマトにザリガニがぶら下がっていた。キリウが今度は慎重に、おっかなびっくり背中側からザリガニを掴んだのを見ると、オヤジのニヤニヤは最高潮に達した。

 わきわき動くザリガニを凝視したまま、キリウはオヤジに尋ねた。

「これ、食べれる?」

「食べれるなあ。大味だけど」

 五秒ほど間が開いて、キリウはオヤジのナイフを勝手に拾い、体重をかけてザリガニの頭に突き立てて殺した。色のついた体液は噴き出してこなかった。オヤジはとうとう大声で笑いだした。

 キリウはバスケットの持ち手に巻いていた白いスカーフに残りのプチトマトを全部出し、代わりに動かなくなったザリガニを入れた。そしてまた、ナイフで裂いたプチトマトを結んだ紐を水の中に投げ込んだ。冷たい水が頭のネジに心地よかった。

「ははは、あははは。おっかしいな。そんなにザリガニ食いてえのか」

 失礼なくらい笑い転げているオヤジにつられて、段々とキリウも笑っていた。愛想笑いだったが、決して卑屈になっているのではなく、自然とこぼれた愛想笑いだった。

「友達と食べるの。オッサン、これあげる」

 キリウは涙を流さんばかりのオヤジにプチトマトをくるんだスカーフを突き出したが、オヤジはヒーヒー言いながら「余ったら貰うわ」と遠慮した。

 お分かりでしょうか!? こんなもんでいいんだよ!!