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113.キリウ少年とコランダミー

『宛先のアドレスから応答がありませんでした。時間が経ってからもう一度お試しください。』

 吐き出された使い捨ての電子メッセージカードを、キリウ少年はため息まじりに引っこ抜いた。電波が届かなかったようだ。列車備え付けの公衆送信機というのはどの地域でもこんな具合である。彼はラジオ番組のアドレス宛に、砂鉄を大量に飲み込んだ人間の身に起きた世にも恐ろしい出来事の話を、今すぐ送りたかっただけなのだが。

 諦めてメッセージカードを仕舞おうとしたその時、彼は自分の鞄の中に変なものが入っていることに気づいた。クリップでまとめられた真っ白なコピー用紙の束である。

 彼の鞄の中にはもっと変なものがたくさん入ってる、と皆は思っているかもしれないが、そんなことはない。キリウはいつでもスカウトから走って逃げられるように、むしろ普段はほとんどモノを持たない奴だった。ヤギは飼っていないし、大きな紙に細かい迷路を描く趣味も無いし、こんな紙をどこで何のために手に入れたのやら……?

 まばらな乗客の間を抜けて連れのもとに戻ったキリウは、ロングシートの端っこに掛けている彼女にその話を振ろうとして、やっぱりやめた。ゴミを押し付けようとしてるのだと思われたら全身にカビが生えそうだからだ。

 彼女・コランダミーは、膝に堂々とスケッチブックを広げてお絵かきに勤しんでいた。

「ヤ、ヤギいるの?」

 ヤギを探していたキリウは、そこに描かれていたヤギらしき形に思わず反応した。それはピンク色で塗られてスズランの花のような尻尾をしていたが、贋作の転売に携わった経験のあるキリウには一目でヤギだと分かった。

 当のコランダミーは八色鉛筆を動かす手を止め、「いるよ」と言ってドアの正面を指さした。その指先を目で追って、ほとんど独り言のようにキリウはつぶやいた。

「ああ……紙が余ってるんだけどな」

 もちろんキリウの目にはヤギなど見えず、ただ閑散とした車両内の情景と、それにまとわりつく虫たちの鬱陶しい姿があるだけだ。あの虫たちはコランダミーのスケッチブックに描かれたことがなく、この先も永久に描かれることはないという事実を知ったら、嘆くだろうか。

 ――こうしてコランダミーが夢中になって不思議な世界の絵を描くことに、キリウがやきもきしていた時期が無かったと言えば嘘になる。当初のキリウは彼女にそういった絵を見せられるたび、自分には見えない色の美しさを熱心に語られているかのような……例えばモンシロチョウから一方的に異性の好みを陳述されているかのような、そんな気まずさを感じてしまっていたのだ。

 けれど今ではそうでもなかった。ずっと一緒の列車に乗っているうちにそれが気にならなくなってきたのは、ひとえにコランダミーのほっぺが冷たいからだ。

 やり場のない紙束をぱらぱらめくりながら、キリウはなんとなしに向かい側の車窓を見て言った。

「なんか、あの辺、黒いね」

 その景色はもちろん、呆れるほどに代わり映えのしない白黒をしたがれきの大地と、思い出したように配置された白い電波塔の煉獄である。どこまでも永遠にこれが続くかと思うとゾッとするが、ただし今日のそれは真ん中の三ヘクタールくらいが妙に黒ずんでおり、影というよりは穴が空いているかのようだった。

 すると唐突にコランダミーがぱっと顔を上げ、遠目にそれをしばらく見つめたのだ。

「んー」

 首をかしげて固まっているコランダミーの肩を、キリウは遠慮がちにつついた。

「ああいうの好きなの、コランダミー」

「黒い花……」

 それだけ言って、彼女はモサモサとお絵かきに戻っていった。なんともはや。

 キリウもお絵かきをすることにした。コランダミーとアイドルの座を奪い合っても仕方がないからだ。彼はつぶれた紙束を広げ、就職説明会で貰ったボールペンを引っ張り出し、イヤホンのコードを首にぐるぐる巻いた。このようにして心の中のマカロニ工場に潜り、憎しみを膨らませてゆく。

 弾ける暴力衝動に従って張り裂けんばかりにペンを動かすと、そこに浮かび上がった凶悪な犯人像は……。

「わー、かわいい!」

 恥ずかしそうにキリウがコランダミーに差し出した紙には、白と黒の花のアレンジメントが描かれていた。以前にコランダミーが描いていたものを見ただけで、キリウ自身は実物を知らない花の絵だ。コランダミーはそれをいたく気に入ったらしく、紙束ごと持って行ってしまった。