もどる TOP

112.ハナノハラ線にて その3

 ――。

 遠くで低く響いていた川の音が、いつの間にか聴こえなくなっていた。地下に潜ってしまったのだろうか。川の先に何があるかを見てみたかったのに。

 白と黒のがれきの地平の真ん中に駅があった。小さいながらも意匠が凝らされたステキな駅舎だったが、その壁と屋根の半分は吹き飛ばされたように失われていた。次の駅に繋がるはずの線路も完全にひしゃげて途切れていた。

 この先にはがれき以外の何も見えない。

 チャリから降りたキリウ少年が線路を踏みつけたら、金属の光沢を持ったそれは泥団子のように潰れてしまった。月明かりに浮かぶ駅名標には『〆野街』と記されていた。件の鉄道オタクに見せてもらったハナノハラ線の路線図には、そのような駅は無かったのにだ。

 やはりこの路線はオカルト。キリウはチャリのカゴでゴロゴロしていたトランを抱えて、プラットホームの上に跳び乗った。しかし足元がぐにゃりと沈み込んだ気がしたので、今度は無人の改札もろとも屋根を跳び越え、駅の正面に立った。

 地図に無い街。向こうに電波塔が見える街。

 ゴキブリ一匹いない真夜中の大通りには色あせた建物が並んでいるばかりだった。平らな地面がきらきらするので、よく見るとそこらじゅうが水浸しだった。風ひとつない夜の透明な水たまりは板ガラスを敷いたみたいだ。

 長靴を履いてくるべきだった。子供にも分かることだ。ヒヨコにも。

 踏み出したかかとの下で、平らだった地面がぬかるんで凹む。靴を浸した水は温かくも冷たくもなく、代わりになぜか膝がくすぐったくなる。笑うか笑うまいか迷ったキリウがピコピコハンマーで近くに立っていた道路標識を殴ると、そこから上が完全に崩れ落ちた。砂のような泥のような糊のかたまりのような灰色の何かが彼の指に積もり、なんとなくサラサラこぼれた。

 そうして歩き始めたキリウを眼下に、いつの間にか腕から抜け出したトランが飛んでいた。異形の白い影が薄闇の中で踊っていた。この静かすぎる街並みには、かれの関節が擦れる音と、キリウの濡れた足音だけがあった。

 静かすぎる?

 ああ……そうか。虫たちの翅音が無いせいだ。

 嫌な予感にかられたキリウは真っ白な街路樹を蹴った。常時ならみっともないくらい落ちてくるはずの白い虫たちが一匹も現れなかった。この行為は蹴り採集と呼ぶ。代わりに嫌な音を立てて割れた幹の内側には緑色の汁が溜まっており、流れ落ちた排水溝の上で横たわっているネズミの干からびた死骸には、タコの脚が生えていた。

 何かと時間が無いかもしれない。砂消しゴムをかけていくように具体的なものが無くなりつつある。このままではここにいるキリウも、朝までに多指症と女装癖を発狂して朝敵と化してしまうだろう。

 彼は急ぐことにした。足元の悪さを嫌うようにジャンプして屋根に上った。それから強引に高所から高所へと跳び移ってゆき、目的地に向かってまっすぐ進んだ。其処まで行くには街を突っ切る必要があるが、鬱屈した若者には問題でない。静止した空気にひらめく彼の上着の内側からカッターナイフが落ち、溶けかけの屋上に突き刺さったところからビル全体に亀裂が入る。この街は星の光で壊れそうだった。

 ふいに彼は自分を追い越していったトランを見た。いつものすっとろさからは想像もつかないほどに、今夜のトランは上機嫌に宙を舞っていたのだ。

 その背中の小さな羽がシステムにもたらしたバイブレーションがキリウのインナースペースで爆発し、

 黒い液体にまみれた釘と釘と釘が全身から飛び出して、

 もう人を愛せませんよ!!

 そのときキリウは見えない翼で飛んでいたかもしれない!! だって釘が刺さって破裂した街にはもともと、彼の居場所など無いのだから!!

 ――。

 とてもとても高いところから少年が落ちてきた。

 回転をかけて白と黒の地面に降り立つ時、彼はその手に握っていた消防斧で金属のフェンスを叩き斬った。ひしゃげて火花を散らすフェンスを踏み越え、彼は目の前の電波塔を雑然かつ毅然と見上げた。

 彼はここに来なければならなかった。何が突き動かすのか、これしか道は無いのだ。もう一度勢いをつけて彼は踏み出し、重力をブチ破り、あろうことか百メートル以上もの高さの電波塔の天辺にひとっ跳びした。さすがに何かがおかしいような……。

 彼はそこに、くるくる回りながら異様にふんわり着地した。そしてゲラゲラ笑いながら、心底めちゃくちゃでゾッとするようなグチャグチャの数値が並ぶ制御盤の計器をベチベチ叩き、通信機にコードをガガガガガピコピコ(^^)ぴこぴこ(^^)ぽー

「あっ!」

 自分の声でびっくりしたキリウは、一瞬遅れて背中に手を当てた。羽を掴んで引き抜かれたような痛みが走ってきて、へたり込むと、仏頂面のトランが横から出てきて彼を見下ろした。尖った腕で背中をどつかれたのだ。

 ああ……そうだよな。

 帰らなくちゃ!

 入力内容に間違いが無いことを確認したあと、キリウは送信コマンドを叩いた。彼がやるべきことは終わった。トランをまた腕に抱いて、彼は風の無い街に向かって跳んだ。叫びながら。

 

 

「キリウちゃん」

 二人分の荷物を背中に、少年の名前を呼ぶコランダミーの手にはペンデュラムがあった。細い鎖の先でサイコロ型の黒い石が揺れていた。このファンシー少女はダウジングで連れの居場所を探し当てたらしい。

 キリウが座っていたのはハナノハラ線・夕顔街駅北口側の階段の端っこだった。まばらな朝の通勤客が訝しげに彼を見て、鞄を引っ込めながら横を通り過ぎてゆく。しかし彼は心ここにあらずの面持ちで、頭にトランを乗せたまま、コランダミーの姿に気づいているのやら。

「キリウちゃーん」

 ……。

「先に行っちゃったのかと思ったよう……」

 ……。

 ごめん、とかすれた声でつぶやいた彼は寝ぼけ眼を伏せた。すると健気なコランダミーが、膝に容赦無く彼の荷物をぶつけてきたので、うめき混じりに顔を引っかいた。

「列車に乗ってから寝よーよ?」

「……うん」

 コランダミーに肩をぽかぽか叩かれて、足元が危ないキリウはようやく立ち上がる。腕を引っ張られて駅構内に連行されていく時、上着のポッケから記憶があいまいなメロンパンの袋が出てきたので、彼は何も考えずにゴミ箱に押し込んだ。

 途方もなく長い川の先からやってくる小さな列車に乗って、白に黒に染まり続ける川の先に向かっていく人々がたくさんいる。このまま川沿いの街をどこまで行けるだろうか。