近くで未消化のアップルケーキをげえげえ吐き出している女に目もくれないのがキリウ少年である。
Q56.踏みたい方ですか? 踏まれたい方ですか?
A56.近所付き合いももう限界!!
地面に膝をついたままの女は涙をこぼし、むせ返りながら、何かを言おうとしている。その断片的な言葉たちは確かにキリウを呪っていたが、集めたところでボランティアにもならない。真っ白なジグソーパズルを組み立てて額に入れて壁にかけてヨダレを垂らしながら眺めるのとどう違うのだ。充血した目で白い壁を見つめていた方が建設的ではない根拠は?
悪意に満ちたキリウは借り物のパイプ椅子に座って、片手に果物ナイフを握っていた。手元にじっと視線を落としたままの目は虫のようであったが、その実、俺が七不思議の七つ目だとでも言いだしかねない危険な光を秘めてもいた。そして彼は、もう片手でもてあましていたリンゴの一片に、また銀色の刃を当てる。
別の女が短い悲鳴を上げた。さらに別の女は、残酷なものを見たい気持ちを隠しきれないようだった。あるいは別の誰かがつぶやいたかもしれない。
「リンゴって食べられるんだ」
吐いていた女の肩がびくっと震えた。喉からゴゲゲと変な音が出た。
何人かはカッパの実在性を疑う面持ちで上と下と右右左を同時に見たが、そんなことはどうでもいい。めそめそ泣く子供を抱きしめて、おのれもハアハアしながら遠巻きにキリウを睨む母親もいた。そんなことはどうでもいい。
そんなことはどうでも……。
そんなことは……。
四つ目のうさちゃんリンゴのフォルムをキリウが確かめようとしたとき、誰かが大きめのスーパーボールを彼に投げつけた。それはキリウの頭に当たってゴヨンと跳ね、彼の手から落っこちた果物ナイフの先端は、膝に乗っていた皿の真ん中を叩いた。皿からひっくり返ったうさちゃんリンゴたちが、静まり返ったフリーマーケットのど真ん中、街の砂埃にまみれて静かに転がる。
蟻の歌声に混じって、キリウはうさちゃんリンゴの声を聴いた。『救われたいがために人を救うな。ウサギになりたいがために人をウサギにするな』
一方、さらに跳んでいったスーパーボールは、向こう側で売られていた愛玩用リンゴの列に突っ込んだ。
店のオヤジの吠え声に混じって、キリウはアップルケーキの声を聴いた。『灼かれたくないがために世界は灼かれた。私も一緒に灼かれた』
その通りかも……ね。
キリウは、指の中で行き場をなくして生温かくなっていたウサギの頭をかじった。それはとても味気なくぼんやりと、しかし微かに甘かった。はるか昔、食用だった頃のおのれを、真っ赤な心のどこかにいまだ繋ぎ止めているかのように。
「君は旅人だな! きみ、君の……君の故郷では、リンゴを食べるんだな? そうなんだろう!?」
駆け寄ってきたオヤジは救いを求める面相をしてキリウの胸倉を掴み、ひっくり返る声で詰問した。理解できないものでも塩をかければ食べられるという気持ちなのだろう。しかしそれはキリウも同じことだった。キリウは急に笑い出して、べたつく手をオヤジの衣服になすりつけた。
子猫の臓物を塗りつけられたみたいに飛び退いたオヤジを押しのけると、キリウは売れ残りの菓子と今日ここで買ったばかりの果物ナイフを鞄に押し込んで、走った。
どこへ? ここじゃなければどこでも!