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107.炎上エンジェル相談室

「中二病です」

 手術用のマスクをした精神科の女医が繰り返した。キリウ少年が聞き返したからだ。

 このとき、ずっと膝の上で白い羽虫を潰していたキリウの欠けた爪は、行き場をなくしたようだった。若い女医はキリウの目を見ようとせず、その手元はずっとシンセサイザーのような入力装置を叩いていた。

「病気なんですか?」

「はい」

 彼が聞いたことのない病名だった。もしかしたら、遠い昔に本かラジオで聞いたことがあったかもしれないが、インデックスから抜け落ちていた。

 地に足が着かないままの彼はまた尋ねた。ここで天に頭をぶつけて何が悪いと言わんばかりのふてぶてしさを発揮できるタイプだったら、人生はもっと違っていただろうに……。

「なおりますか?」(※将来的に)

「大人になれば自然に」

 女医はそう言いかけて、でもキリウが虐待されてる子供みたいな反応をしたのを横目で見て、言葉の続きを選んでくれた。

「と言いたいですけれども、実際にはあなた次第ですね」

 彼女はキリウが永遠の少年、ピーターパン野郎、あるいは悪魔であることも知っているからだ。だけどいつ、どこで、なぜ、どうやって、それを知ったのだろう。キリウ自身でなければいったい誰が、そんな個人的な問題を言いふらしたのだろう。

 キリウは頭を振った。肯定でも否定でもなく、ただ頭に乗っていた羽虫を払いたかっただけだった。

「なおりますか?」(※どうしたら)

「神経が疲れています。当面は、できるだけ血を見ないようにしてください。あと、過度に壁を見つめることも避けてください。あなたは普通に生活しているつもりでも、実際には生きているだけで、心や身体に大きな負担をかけているようです。髪の毛も青いですし」

 本当なら困った話だ。キリウにはまるで分からなかったが、医者が言うならそうなのだろうかとも思った。

 女医が叩き続けるキーのぱちぱちする音は、キリウが聴く白い虫の翅音によく似て脳をくすぐった。けれどそれとは異なり、焦燥感を駆り立てられるところがなくて心地よかった。

 彼はいつもそれに追われていた。怖いものなど無いけど、ただひたすらに何かを焦っていたのだ。そんな彼を、ある人は自己中だと言ったし、またある人は若いのだと言った。しかし、逃げちゃわないように手すりを掴んでよく考えてみると、それと白い虫とになんら関係が無いことが解るのだった。

 だとしたら彼は、いつから追われているのだ。

 生まれた時からだ。そうでなきゃ缶ぽっくりで首を吊ったりするものか。

 それじゃ、いつまで追われるのだ。

「角砂糖と銀の弾丸を出しておきますので、毎日食べてください。それから、何かあたたかいものに触ったり、触られたりするとよいでしょう。治療が必要ですので、しばらく通ってくださいね」

 いっぺんにそう言うと、自然な所作で女医はキリウの首に手をあてた。炎の近くに置いていたかのように熱を持った手だった。虫たちがのろのろと退いたのがキリウにも分かった。

 彼女のその手も、まっすぐな赤いショートカットの毛足も、キリウは知っている気がした。

「どこかで会いましたか?」

 これを聞くことは、待ち合わせと連絡網が不得手なキリウにとって少し勇気が必要だった。しかし彼女は答えず、診察室を出るようキリウを促しただけだった。キリウもそれ以上留まろうとはしなかったし、次の予約を永遠に取れないことも理解していた。お大事にという声を背中で聞いて、出て行った。

 それにしても優しい声の医者だった。

 

 

 処方された目薬を片手にキリウがョコヤ街で一番大きい病院から出てきたとき、コランダミーがそこらへんで占いをしていた。売血を募っている横でそんなことをしていて、なぜ追い払われないのか、キリウには不思議だった。

 コランダミーはキリウを見て嬉しそうに言った。

「なおった?」

 キリウは、なおってないよと答えた。彼女はキリウがなんで病院に行ったかも知らないのだ。コランダミーというのは、まるで適当に喋っているだけのようだったが、キリウはそんな彼女が好きだった。

 旅人に通院治療は難しいが、ときどき住み着いて通院したところで、治ったためしもない。キリウはだんだん、あちこちの眼科に自分の妄想を喋り歩いているだけのような気がしてきていた。今日の眼科医の爺も訝しげにキリウを見、精密検査をしたところで、どこにも異常は無いと言うだけだった。それはその通りなのかもしれないけれど、いやそれでは困るのだけど、なんだけど。

 何が何が何が?

 飛んできた白い虫(救いようの無い幻覚)をぱちんと叩き落とした。

 ふいに虫並みの反射だけになった彼は、コランダミーの白いほっぺに触ってみた。

「ふあー」

 コランダミーが気の抜けた声を出した。その頬はキリウの手よりもずいぶん冷たかった。もしかすると、トランの硬い身体よりも冷たかった。

 だけどキリウは、どうしていま自分がコランダミーのほっぺのあたたかさを確認しようとしたのか、まるで理由が分からなかった。

「コランダミーも、悪魔?」

「えんじぇる」

「そっか……」

 キリウははぐらかし返されたような気持ちになった。ただ、コランダミーは悪魔とは違うような気がキリウにもしていたし、もしかしたら本当にえんじぇるかもしれないので、それ以上突っ込まなかったが……。

「キリウちゃんは?」

「ジュンと同じだよ」

「同じなの?」

 このとき、キリウは一瞬でも、自分かジュンのどちらかがえんじぇるか、あるいはそれに類するものなのではないかという可能性と向き合わなければならなかった。

「違うのか?」

「キリウちゃんは、死んじゃわないの?」

「俺、死ぬの?」

「ジュンちゃんは、死んじゃった……」

「そうだね。俺とおまえをほっぽって」

「あたしは違うよ?」

「違うの!?」

 らちが明かねえ!

 このあとケーキ屋に駆け込んで、現状を図に起こしたりチャートを描きながらみっちり話し込んで、不明点をコランダミーにひとつずつ確認して、キリウは初めて知った。弟が自裁したわけを。悪魔もいつかは死ぬはずだということを。そしてそれらが全て本当だったとしたら、もうずっと気が遠くなるくらい昔に、それも双子のジュンが「死んじゃった」のに、キリウがなぜ今も正気で生きていられているのかが、相当にわからないのだということも。

 それから! 気が付いたらチョコレートケーキを四つも食べていたコランダミーも、ジュンと同じで、キリウからしつこく聞かなければ、何も教えてくれないタイプなのだということも。