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106.闇の底

 ……ああ……なんだっけ?

 イアン・ノットをド忘れしたせいで結べなくなった靴紐が、剥き出しの脛に生ぬるい雨水をぴしぴし叩きつけるのは不快だった。実際のところ、彼は雨も太陽もない代わりに真っ黒い空にあれ、あの、真っ赤な傘を向けていたのだ。なんで嘘つくの!?!? 嘘じゃないよ最後まで聞け聞いてくれ。

 そう、その……傘? 傘と書いてメトロノームの針と読むシャケ!! わかったら返事をしろうすらボケが!! うずらの腹がモザイクが!! 天にあまねく俺の御言葉が!! 天から天まで罪の罪が!!

 だからなんだか知らないが、イヤにその傘の骨は生き物のそれによく似た色をしていたんだ……。

 長靴を履いてくるべきだった。子供にも分かることだ。ヒヨコにも。ピコピコ音がする一昨日のカカトに誓って本当です。この地面に広がる白と黒に幼児が塗りつぶすかの如く二本指の引っ掻き傷を二日に二つ必ず刻むのを二億年行う罰(ド冤罪)を与えられたお嬢の充血しきった瞳に輝く希望の端っこを切り落とした角っこに咲いた曼珠沙華っぽすぎて噂の液体金属の炎色反応の色によく似てない斑らの大地が。ひび割れたチョークの白と炭の黒との隙間に差し込むトマトの赤が。眩しいくらいの炎の赤が。彼の瞳のような血の――。

 ――。

 ……ああ……なんだっけ?

 いやに平たい地面が彼の神経を少し狂わせていた。街の中でもないのに、地平線を埋め尽くしていた白と黒のがれきはどこへ行ってしまったのだろう。あるいは、そこらじゅうに避けようのない水たまりを湛えまくっている、この一帯のつるつるしたのがそうなのだろうか。踏みつけた白と黒の板チョコを互い違いに並べたかのような?

「コランダミー?」

 彼は歩くことをやめないまま、連れの少女の名前を呼んだ。もっとも、返事があるとは期待していなかったし、そのとおりだったが。

「コランダミー!」

 差しっぱなしの傘の内側に響くおのれの声を、彼は他人のものだと思った。そう思えたのだ。あるいは、いつも感じている頭の中の空っぽの部分から、逃げ出したものかもしれなかった。彼はそれを捕まえなければならない。メモにもそう書いてあったはずだ。

 もう一歩踏み出すと、右足の下で雨水が一際ばしゃりと跳ねた。赤黒く染まった靴が僅かに粘りけのある泡を噴く。その爪先に何かが当たっていた。立ち止まって見てみると、真っ赤な水たまりの深みに、壊れた人形のようなものが沈んでいた。

 水を吸いつくしてぐんにゃりとした小さな身体を、なおあふれる水底に横たえているそれを、彼はコランダミーだと思った。彼は、彼女がそこにいてくれたことを嬉しく思った。

 そして再び顔を上げた彼の前には、彼の弟、ジュン少年が立っていた。

 ――彼と同じ瞳を持つ味音痴の少年だった。冷たい曇り空を貼り付けたような白い髪。時折やたらハイになる、愛を忘れた強迫的な心。真面目な話、すごく人間不信。大丈夫? 夜明け前に電波塔から飛び降りて死んだ少年。

 それとも……。

「いたんだよな?」

 キリウ少年は語りかけるでもなくつぶやいた。

 居た。弟が実在していたことを裏付けてくれる、彼以外で唯一つのもの、コランダミーが今の彼の足元には転がっていてくれたからだ。そうでなければ、強風の中の洗濯物並みの記憶を必死で捕まえている彼には、信じ続けることができなくなりつつあった。たまの悪夢に見る夜明け前の空の青さえも。

 弟が首を傾げた。

 すっと伸ばされた手にキリウは身を引きそうになったが、その指は、キリウが差している傘の露先のひとつを掴んだだけだった。そのままゆっくり捻り上げるように骨に力をかけてくるので、真っ赤な傘布がにわかに歪んでいく。キリウは反射的に傘を両手で肩に押し付けていたが、弟の行為をやめさせようとはせず、その場から動くこともしなかった。

 少しして、乾いた音を立てて傘の骨が割れた。同時にキリウも崩れ落ちた。足にまったく力が入らなくなったからだ。真っ赤に染まった人形の隣に倒れこんだ彼もまた、胴体から血だまりに着水し、顔の半分までが赤く染まった。打ちつけた身体が痛んだが、だけど地面ががれきだったらもっと痛かっただろうなと、彼はどこか他人事のように思っていた。

 その血走った目に映るのは、彼が取り落とした傘を拾い上げる弟の姿だった。白い髪の少年は相変わらずの不愛想ぷりだったが、まだ折れていない別の露先に指をかける仕草に迷いは無かった。そして今度はすぐに、反対側に向かって骨を折り曲げた。

 次はキリウの腕が壊れた。それで肩を支えかけていたキリウはふたたび血だまりに叩きつけられ、飲んでしまった液体のために咳き込んだ。

 そんなキリウを見て、どういうわけかジュンは驚いたらしい。その人は言葉もなく踏み出して、最悪な足元を気にもせず、かたわらに膝をついてキリウをひっくり返すのだった。そのとき、覗き込んできたジュンの透き通った瞳は、キリウを不思議な気持ちにさせた。彼には弟が何をしようとしているかは分からなかったが、それは彼が想像しているほど、酷いことではないように思えたからだ。

 やがてジュンは手元でさらに別の露先を、

 ぽき。

 めきょ。

 みし!

 一本ずつ傘の骨が折れられるたび、キリウから何かが消えていった。

 生き物の骨によく似た色をしたそれが全て折られたとき、キリウにはほとんど何もなくなっていた。

 動けないし、見えないし、聴こえなかった。寝ても覚めても付きまとう、痛いくらいの第六感とそれ以上もことごとく静まり返っていた。焼けつくような焦燥も、どこにもない憧憬も、実体の無い恐怖も、底抜けの思い出も、全てが完全な闇に余さず溶け出したみたいだった。

 今は残った何かがふわふわと浮かんでいるだけだった。

 傘の先端で頭を小突かれて、キリウは出せないはずの声でその人に何かを言った。それを聞いた人は、少しののちに目を伏せて笑った。それから壊れた傘をまっすぐに振り上げた時も、ジュンは笑っていた。

『……てくよ』

 見えないはずのキリウにもそれが分かったので、誰が見ても笑っていたに違いない。

『ツれてくよ』

 そう言ったのか? ジュンがキリウにそう言ったのか。そして凶器を振り下ろそうとしたジュンの横っ面に、

 何かがぶつかった。子供の手のひらほどの白い羽虫だった。でかくて気持ち悪い。

 続けざまに、さらに数匹の羽虫がジュンにぶつかった。

 とっさに振り払おうとしたジュンの手から傘が落ちた。それを受け止めた血だまりの水面は破裂した。ぶちまけられた全ての感覚がいっぺんにキリウを灼き、痙攣を引き起こした。

 間髪入れず、さらに十匹の羽虫が。降り注ぐようにさらに百匹の羽虫が。

 ノイズのような千匹の羽虫が。

 埋め尽くす一万匹の羽虫が。

 ……!!

 !!!!!!!!!!!!

 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 殺到する無数の羽虫がジュンをひっぱっていた。壊していた。

 口も無いはずの虫たちが、何でか皮膚を食いちぎり、食いやぶろうとしていた。隙間を作りたがってひしめき蠢いていた。

 かれの細い身体に虫たちの六倍の足と二倍の触角がまとわりつく。覆いつくす。細かい毛の生えた虫の脚が柔らかいまぶたを引き裂き、眼球から居場所を奪おうとする。硬質の外骨格が内側から肉を裂く。叫び声に混じって血の泡を噴かせだす。

 一匹だとぱちぱちするだけの翅音が、今はがらがらと暴力的な轟音を立てていた。真ん中で上がる甲高い悲鳴はくぐもって、とても遠くで響いてキリウには聴こえていた。

 実際にはキリウのすぐそばにあるのだが、ショートして吹き飛んだキリウには無理だった。それに彼は、ジュンのこんな悲鳴など聴いたことがなかったのだ。彼はそれを自分の声だと思った。彼は血の池に頬を浸したまま、開きっぱなしの目で、羽虫に散らかされていく弟を見上げていた。

 ふいにあたたかい血の飛沫を浴びたとき、彼は虫の長い触角が自分のノドを内側から撫でる感覚を覚えて吐いた。

 ――。

 深すぎる血の池にずるりと落ち込んだのは身体なのか。沈んでいきながら、彼は水面の近くを漂う人形の影と、それを形作る白い光とを、とても下から見ていた。見えなくなるまで見ていた。

 遠くで誰かの悲鳴が聴こえていた。彼はそれを自分の声だと思った。

 そのうち訪れた完璧な闇の底もまた赤かった。キリウは鋭利な歯を持つ巨大な生き物と出会った。もっとも、何も見えないので、それが本当のところはどんな姿であるかは分からない。そいつがキリウを頭からかじって、噛み砕いていって、あとには骨も残らなかった。

 

 

「……」

 痛い、と言おうとしたけど声が出なかった。キリウは半ば寝ぼけたまま、頭の上でもぞもぞ動いていたトランを引きはがした。すると突き立てられていた脚が無遠慮にキリウの頭を引っかくので、すっかり起きる羽目になったが。

 首根っこを掴まれて恨みがましそうなトランの瞳の赤に、キリウは胸が悪くなった気がした。網膜に焼き付いた夥しい赤が跳ね返ったような景色の中で、その色は少し鮮やかすぎた。彼はそのままむぎゅうとトランを胸に抱き、頬ずりというよりは頭突きした。

 起こすのが遅すぎんだよ、などと不平を言いながら、けっきょくキリウはその日、列車が駅に着くまでずっとトランをむぎゅむぎゅしていた。

 やがて、向かいでやはり寝入っていたコランダミーが目を覚まして、案の定財布がなくなったとか言い始めるくらいまでは、ずっとそうしていた。