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105.売人日記

 そんなこんなでどれくらい経ったやら……。

 紙皿の上で、雨水のゼリーがぷるぷる揺れていた。これをエサに罠を仕掛けておけば、虹を捕まえられるんじゃないかと思って。

「それも売り物?」

 呂律の回ってない声で、アホそうな青年が尋ねてくる。しかしキリウ少年は、手に持っていたそれを、すぐそこの川に放った。柔らかいゼリーは灰色の水面に叩きつけられ、あの日の希望のように砕け散り、絶望が突き落とすより速く、水しぶきの中へと消えていった。

 今キリウがやったことには、生物多様性の保全以上の意味が無かった。けれど青年は、まだ良い返事を期待しているようだった。

 だからキリウは、スケジュール帳の間からいくつか小パッケージを引っ張り出して、彼に見せてみた。パッケージの中身は左から粉ゼラチン・ドライイースト・粉ミルクだったが、どうでもいいことだろう。「生きがいよりホットケーキ」とつぶやいて、自信のない素振りをしてみせたキリウの上着のポッケに、ラリった笑顔の青年は、嬉しそうに飴玉をねじ込んできた。

 明らかに青年は、この取引が良いものであると信じている。あるいは彼がパンを焼くタイプであったなら、未来は違ったかもしれないが。

 粉ゼラチンを、そうとは知らずあらゆる手段で吸入し始めた青年をよそに、キリウはざぶざぶ流れる川を眺めていた。珍しいことに、この街には川が存在した。毛細血管のように地下を薄く広く流れるものではなく、地上を流れる大きな川だ。灰色の砂で濁り切った大量の水が、街のど真ん中を突っ切っていた。

 この荒れ果てた河原のいたるところで、大勢の若者たちが薬をやりながら、○×ゲームなどのレクリエーションを楽しんでいる。それはひもすがら続いた後、夜もすがら続き、いつか全員の知能指数がゼロになるまで続く。

 そんな中、キリウは彼らに混ざることもなく、そこらじゅうに投棄されている粗大ゴミの隙間に挟まる空想ばかりしていた。

「あ~~回る回る~~」

 粉ゼラチンでラリっている青年の姿には、幻滅するものがあった。

 キリウは卒業アルバムを燃やしている別の集団に近づき、真っ赤な炎の中に真っ白なスケジュール帳を投げ込んだ。そしてスキップをしながらその場を離れると、近くの公園へ向かった。

 公園に到着してみると、キリウと待ち合わせをしていたコランダミーが、トランにシャボン玉を吹きかけて遊んでいた。キリウを見るなり、彼女は嬉しそうに駆け寄ってきた。

「キリウちゃん、お薬売れた?」

 キリウは頷いて、コランダミーに飴玉を放って言った。

「この街を早く出たほうがいいかも」

「わー?」

 手持ちの危険物をできる限り捌いてしまうために、この街に来てからのキリウは手段を選ばなかったからだ。ゼラチンの件ももちろんあるが、過剰なダンピング行為や、マリンバとの抱き合わせ販売など、地元の同業者に見つかったら殺されかねない。よそから来た売人が何の後ろ盾もなくモノを売ること自体が、そもそもハイリスクな行為だというのに。

 ――コランダミーについて行こうと思い立って以来のキリウは、ずっとこのような感じだった。

 キリウは、あっちこっち移動するような生活が自分に合っていないことに気づいていた。実のところ、彼が弟と旅をしていた頃から、ずっと気づいてはいたのだ。知らない人と話すのが苦手で、世界を見て回りたいとは欠片も思っておらず、列車でじっと座っていると嫌なことばかり考えてしまう。どうもキリウは根本的に旅人に向いていないようだった。

 しかしそれなら、今のキリウを動かしているものは何なのだろう。

「コランダミー、どっち?」

「あっち」

 コランダミーが漠然と指さす『あっち』が、いつも正確に同じ方角を示していることをキリウは発見していた。

 その先に何があるかは分からないが、今のところはそれだけで充分だった。何より彼女が、キリウの死んだ弟のことを、キリウ以外で唯一覚えている存在であることを差し引いたとしても……。

 (違う。それを差し引いたら何も残らないということにもキリウは気づいている。)