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104.鳥になりたい

 手元を見ずにえんぴつ削りを回していて、キリウ少年はふと、メロロ街のヤンママの弟のことを思い出した。とある陰惨な経緯から、二人目の妻と別居中だったヤンママには、彼女の小さな娘のほかに二回り離れた弟がいて、一つ屋根の下に住んでいた。

 ある日キリウが「屋根さえなければ皆一つの空の下に住んでいられたのに」と言ったことから、その付き合いは始まったのだと、あの頃の空は記憶している。近所に住んでいたキリウは、ときどきそいつの勉強を見るようになった。見ているだけではつまらなくて、踊ったりもしたが。そいつはキリウより年上だったが、スカンピンなこととメロンのような頭をしていることを除けば、そこそこだった。時にカス以下の態度でも、ハートではキリウをいい奴だと思ってくれていたのだ。

 マルチ商法に関わるキリウが、金に困っているあの家族を食い物にしようとしなかったのは、なぜだろう。今思えば、ひとえにヤンママの「お前はチャランポランしてるけどハートはポヨンポヨンだかんな」という言葉のためにだった。その程度のことだ。そういうこともあるのだ。

「コランダミー。さっきのは本当なのか?」

 そう言って、えんぴつ削りの屑をすみっこのシロアリに与え始めたキリウを、占い師のコランダミーが見た。

 ビル陰で座り込みっぱなしのキリウの顔を覗き込もうと、街道に机を広げていた彼女の身体が傾く。細い首に紐で下げられた二つの看板が揺れた。占いをする旨とフリーハグをする旨。

「ほんとだよ?」

 彼女が手に持ったままのオカルトグッズ『黒イドスコープ』を掲げようとしたのを、キリウは手で制した。

 その黒い筒は、未来を視るアーティファクト(アーティファクトと言ってみたかっただけ)だ。先ほどキリウがコランダミーに占いを頼んだとき、占いサービスの範疇であるはずのそこには、二つの要因で至らなかった。

 ひとつは、コランダミーがまず彼の過去を(どうやってか)しばらく視て、ある出来事について二分くらい語ったところで、キリウがひっくり返ってしまったから。

 ――それは、キリウがカッパと一緒に乗った観覧車の天辺でのことだった。キリウはすごくドキドキしていた。向かいに座ったカッパの皿が夕日に照らされて、とても綺麗だったからだ。カッパが照れくさそうに俯いていたから、なおさらそのような角度になっていた。

 そんな二人きりの思い出だったとキリウは思っていた。

 だからあの時、実はキリウの隣にもう一人、お金をくれるパパが一緒に乗っていたのだということをコランダミーに聞かされて、ひっくり返った。

「俺、あのあとカッパに……」

「うん」

「フラれたでしょ? そいつが横で見てたのか!?」

「うん」

 こめかみから紙吹雪を噴いたキリウに向けて、コランダミーが再び黒い筒を構える。彼女はそれをさっと覗き込むと、必要なモノを確認し、呪文のように口早に唱える。

「このあと、キリウちゃんの顔が真っ赤になりま――」

 次の瞬間、泣きそうな顔をしたキリウが筒の先端を掴んで叫んだ。

「コランダミー。未来は視なくていいって俺は最初に頼んだ!」

 二つ目の要因だった。しかしコランダミーは頬を膨らませて反論した。

「ジュンちゃんは、やめてって言ったらやってほしいって言ってたよ?」

「あの天邪鬼!! あのね、俺はあいつとは趣味が違うの」

「キリウちゃんはどーゆう趣味?」

「俺? 俺は…………鳥になりたい」

 トーンダウンしたキリウの血走った目が、コランダミーのお気楽な心を少なからず動かしたことは事実だろう。彼女は神妙になって思案すると、オカルト鞄からカラスの羽ぼうきを二本取り出した。それをキリウの頭に乗せた。

 次の瞬間、キリウは脳みそに雷が落ちてきたような感覚になって、はるか上空から街を見下ろしていた。世界を青と白に二分する地平線が遠くにあり、いっぺんに二本も電波塔を視界に捉える。すさまじい風と白い紙吹雪に飲み込まれそうになりながら、三半規管を振り絞って、ぐるぐる回る世界を受信する。うごめく街は虫の巣のようだ。善人にも雨は降り、太陽は悪人も照らす。虹を捕まえる方法を考えたんだ! 今すぐゼラチンを買いに行かなければ!

 だが不思議だな、鳥ってやつには空のそんなところから地べたのアリがウジがシルバーフィッシュが見えているとは皆目知らなんだ――。

 ――プラスチックが割れる音がした。コランダミーのレジ代わりの菓子缶に手を突っ込んでいた若者の頭に、キリウのえんぴつ削りの底が叩きつけられたからだ。

 いつの間にか立ち上がっていたキリウは、もう二度えんぴつ削りを振り下ろした。彼は血しぶきを浴びても気にせず、うめき声を上げている若者を引きずって地べたに広げると、えんぴつ削りの屑の残りをまんべんなくかけて、モフモフにした。そしてひび割れだらけになったえんぴつ削りを抱え、思い出したように口を開いた。

「コランダミー……? 占い、ありがとう」

 彼は自分のポッケから取り出した小銭を菓子缶に入れて笑った。その頭にどこからか植木鉢が落ちてきたので、彼はポヨンポヨンのハートともども、顔面が血まみれになって倒れた。

 ビルの上階から怒鳴り声が響いてきた。次にふよふよと降りてきたトランを見て、何も考えてなかったコランダミーも笑った。

 それから、先程キリウが立ったはずみで地面に転がっていたカラスの羽ぼうきの埃を払っている間、彼女は考えた。

 あのとき実はさらにもう一人、カッパさんの隣に眼鏡のメイドさんが座っていたことを、果たして言うべきでしょーか? そしてその人は、本当はキリウちゃんのことが好きだったのに……。