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102.スピリットデイズ

 ……あなたの眼球表面を流れるホコリの陰が、雲一つない青空に愛の言葉を作りはじめた時の話を……。

 違う。違う、そんなラジオは聞いてない。そんな番組は……。

 そういうわけで早くも旅人・コランダミーが、メロロ街のかゆいところの豆腐屋に顔を覚えられてきていた頃のこと。

「あたしね、あっちに行くの」

 昼下がり、本当に唐突に、豆腐の入ったボウルを抱えたままの彼女が言い出した。

 キリウ少年は心霊写真の修正作業をする手を止めて、彼女を見た。その瞬間、週貸しアパートの薄い壁に走った、危なげなラップ音も気にせずに。

「どっち?」

「んー」

 尋ねられたコランダミーは明後日の方向に首を傾けた。

「あっちのほう」

 キリウはそれとは一切関係なく、コランダミーとたんぽぽとに類似点を見つけていた。

 この時キリウはとっくに、おのれが借りているこの街の大量の貸しコンテナを全て解約するのに、最短でどれだけの手数が必要かを考え始めていた。意味もなく借りたせいで容れるものが無いという、矛盾した所有欲を容れたくて、その後はたんぽぽを育てるのに使っていたものだ。

 それでも、全ての綿毛を散らすには相応の時間がかかるはずである。

「俺、一緒に行っていい?」

「キリウちゃんも一緒に来てくれる?」

 まったく同時に口を開いた二人の声が、コランダミーの手の中の冷たい水面をかすかに震わせる。二人とも笑ったが、キリウは為替でひどい損をしていたことを思い出したように俯いて、続けた。

「あっち向きの路線は、この街から二十駅は行かないと無い」

「わー!」

 コランダミーは相変わらず、分かってるんだか分かってないんだかよく分からない、いつもの調子であった。

 街・駅と一口に言っても、それらが指す規模はものにより若干異なる。例えばいま少年が口にした二十という数字は、かの路線で通過する街の数に換算すると十六、移動時間に換算すると七日をくだらない。それがどちらかというと大きい方なのか小さい方なのか、忘れっぽいキリウには分からないし、何も考えてないコランダミーにも分からない。

 そんなのわかったところで、永遠の少年たちにはなんの意味もない。

 ただ、外では夕刊の新聞配達のバイクのエンジン音が響いていた。この路線沿いはバイク乗りが多かった。ガソリンを入れたままのバイクをエーテル転送すると壊れるという三十年前の常識の名残からか、列車も貨物車両を他所より増やしてバイクを積めるようにしている。疾走れる程度には広いのだ。キリウも、エンジンオイルにきれいな言葉をかけて波動の質を高めるアルバイトに定期的に誘われていた……。

 そのままキリウは持て余していた手元に視線を落とし、女性の幽霊の肌をきれいにする作業へと戻った。この信憑性の高い心霊写真は、それを信じない誰の目にも何らかの事象を認めさせることができるほどのものだった。世の中の全てがこんなふうならどれだけいいことか。

 以前より彼は、色味の調節に関しては三次元眼鏡が邪魔になることを発見していた。

 干からびて木の根のように黒ずんで皴の寄っていた手もご覧の通り、今やおそらく生前同様のつつましさ。こんな美しい人に寄り添われて依頼者も幸せだろうな、と少年は本心で思っていた。

「顔が消えてるよ!」

 いつの間にか彼の隣に座っていたコランダミーが指さした写真の一角には、のっぺらぼうの犬の姿があった。依頼者のいとこの甥の飼い犬だ。小ぎれいな長毛種だが、吠えずに咬むタイプだし、キリウの靴を三足はダメにした。その件との関連性はいっさい不明だが、キリウの狂った手元にうっかりしっかり顔をグチャグチャに塗りつぶされてしまっていたらしい。

 しかしちょうどその上を白い虫が這っていたため、キリウにはコランダミーが何を言っているのかすぐには理解できなかった。コランダミーからすれば、いきなり彼が固まってしまったように見えただろう。

「キリウちゃん、だいじょうぶ?」

 キリウはペンを握ったままの手で、彼にしか見得ない虫を叩き潰しながら頷いた。しかしその時コランダミーもまた、彼女にしか――。

「あ!」

 もしくはもうひとり、にしか見得ない緑色のアメンボをみつけていた。

 豆腐の八ミリ上を滑る波紋。

「べつに……なにも」

 首を振ったキリウは、にこにこ顔のコランダミーと同じところをちらっと見た。そこには虫の細かな鱗粉と、白い油膜と、壊れた脚とが浮かんでいるだけだった。

 そんな彼は、彼の弟と同じ花、もしくは愛しい何かを見るコランダミーがなんなのか、いまだ測りかねていた。

 ……あなたの親友の眼球表面を流れるホコリの陰が、彼の見る雲一つない青空に愛の言葉を作りはじめた時の話を……。