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101.恋してピクルス

 ある女は、乾燥肌と、それに拍車をかけるこの倉庫の乾燥しきった空気が、だんだん気持ちよくなってきていた。緑色灯だけが照らす手元の暗さも。それと、えんえんそこの壁にくっついてる気持ち悪い生き物の、コンクリートをガリガリひっかいたり、思い出したようにギイギイ鳴いたりするノイズも。

 労働環境の話だ。この、メロロ街の外れの倉庫に彼女が通いつめて半年が過ぎる。

 思いつめて半年でもあった。頭のおかしい借金取りに斡旋された作業だ。もしくは四つの中から選べと言われた残りの三つが、美人局か、猿にもてあそばれるか、ピクルスにされるかだったみたいな。

 当初は彼女の他にも数人がここで同じ作業をしていた気もするが、今となっては幻じみた記憶である。二言三言会話を交わしたかもしれないが、皆互いを嫌っていたような気さえした。どっかのバカが生卵とゆで卵を入れ替えて遊んでたら、どれがどれだかわかんなくなったせいだ。

 あの日は雨が降っていた。

 いいや。

 それもこれも、彼女がいとこの結婚式で会った遠縁の人妻に入れあげて、勤め先の賽銭箱から犬の餌代から、あらゆる金に手を付けてしまったことが、全ての原因だったのだが……。

「おしまいです」

 今の彼女は、げっそりした面を戸惑った風に上下させていた。今日も今日とてふらりと現れた借金取り、もしくは空色の髪の悪魔が差し出した、薄い紙幣の束を見て。

 ――その債務者が受け取ってよいものかどうか判断しかねているらしいので、キリウ少年はもう一度手の中のものを突きつけて言った。

「おつり」

 おしまい、というのは彼女の借金の返済のことであり、つまりはこの倉庫で行われていた違法な商材作りのアルバイトの終わりでもある。キリウが適当な債務者を集めて、雇用を創出して(自分でやるのが面倒な作業をやらせて)あげた、存在自体が違法なアルバイトだ。そしてこの金は、彼女が作りすぎて余った商材の代金と、こないだキリウが募金箱に入れなかった分だ。

 誰かを救えるはずだった金で食う飯には趣がある。

 キリウによる福音書:第五十章:百物語編。電波少年が「幸せな奴だけが手を叩きなさい」と言ったところ、誰も手を叩くことができず、電波少年も含めてみんなで泣いた。

「ほんもの?」

 震える声で女が尋ねた。彼女はまだ、キリウがこの金を出したことを訝しんでいるのだろう。だが無理もない。胴元への支払いはいつもキリウが勝手に立て替えてやっていたし、何よりキリウは彼女に対して、パッチンガムを差し出すようなまねばかりしていたからだ。

「これ持ってサヨナラです」

 純情なやつめ、とキリウは笑った。そしてコンクリート壁から不気味な生き物、もしくは骨精霊のトランをひっぺがした。そいつにひっかかれながら、彼はなおも笑っていた。さっき近所のヤンママに「お前みたいなんは笑ってたほうが鳥が寄ってくる」と評されたのを実践していたためだ。

 でもやっぱり、乱舞する骨質の脚の先端に思い切り頬を引き裂かれたので、もうやめた。

 キリウによる福音書:第七十七章:地獄編。右の頬を叩かれる前に自分で叩きなさい。左の頬も叩きなさい。赤くなったら勝ち。ムカついたら負け。

 そう、トラン。意味もなく笑ってる奴を殺していいことを知ってる賢いトランが、ヨダレを垂らしながらギイと鳴いた。借金取りの生温かい血飛沫を浴びて、大きな一つ目をぎょろぎょろさせながら。

 不躾な腕を逃れて宙を漂うそいつに、さっきからずっと倉庫の中をうろちょろしていたコランダミーが寄ってきて、ペタペタ触る。でもトランが歯ぎしりして暴れたので、びっくりしたように手を引っ込めている。

 そんなんを呆けたように見ている女の頬に金を押し付けて、キリウはわざと怒鳴った。

「どっかいけよッ。次、人妻を落とせるなんて幻想にとりつかれたら、今度こそ猿に恋してもらうからな!」

 実際のところ、キリウは彼女にピクルスになってほしかったと、今でも思っていたのに。

 おつりを引っつかんで逃げるように走り去った女の猫背を見送る世界はセンチメンタル。

 コランダミーがつぶやいた。

「あたし、ジャマ?」

 コランダミーはほんの少し不安げだったが、キリウがすぐに否定したので、ネジが足りなそうな顔に戻った。そして少年が鞄に『商材』の小箱をがさがさ詰め込むのを、その大きな目でじっと見つめていた。

 すぐに、興味があるようなないようなふうに口を開いた。

「それなに?」

「ガギグゲ藻の抽出物」

「どうするの?」

「薬の材料」

「なんのくすり?」

「くすりません」

(座右の銘が無い人は今考えよう!)

「ジュンちゃんと同じこと言ってる!」

 その言葉にキリウは最後の商材を取り落としたが、コランダミーは合わせた手のひらをわしゃわしゃして、心底嬉しそうだった。

 昨日に引き続き、キリウは同じ角度からのパンチを避け損ねたような、そういう気持ちになった。これが実態のある企業だったら雲散霧消していたところだが、あの件を蹴ったのは果たして正しかったのだろうか? いまとなっては何も分からない。そんなことはこの世の全てに言えることだ。

 電波塔から飛び降りて死んだ、彼の双子の弟に関しても。

 倉庫の窓という窓を内側から覆っていた暗幕を引きちぎりながら、どこかぎこちないままキリウは、ようやく尋ねた。

「なに? コランダミーは、あいつの、漫才師の相方?」

 いつの間にか上の方にへばりついていたらしいトランが背中からぼとっと落ちてきて、コンクリートの床でもがく。

 コランダミーは差し込んだ夕日に目を覆ったが、その仕草すら嬉しげで、首を横に振って答えた。

「えんじぇる」

 ガギグゲ藻の毒性成分タチツテトキシンは、用水路の底の怖い虫から身を守るためのものなので、通常、太陽光を浴びると分解されてしまう。そこを最低限に抑えながらの作業が可能な、ぎりぎりの光源が、緑色発光ダイオードを用いた緑色灯である。

 ランタンの形をしたそれを暗幕でくるむキリウの所作は、きわめて投げやりだった。

「あいつの趣味がわかんない……」

 ぼやいた彼に、またすかさずコランダミーがパンチを放つ。

「あたし知ってるよ! ジュンちゃんの趣味は、旅人と、お絵かきと、ボーッとしてるの」

 にわかオタクめ! 最後のは恐らく『他の人とは違うもの』を見てるときの彼だろう、とキリウは思った。なのでキリウはコランダミーをちらとも見ずに訂正を求めたが、

「ボーッとしてるんじゃない。あいつは見てんだよ」

「見てないよ!」

 あまりに断定したふうに言い返されて、きょとんと向き直ってしまった。

「もっと遠くだよ! 何にも見てないんだよ。あと、お花が好き、白くてキレイ。でもだんだん黒くなって、なくなっちゃう」

 この時キリウはなぜか、おのれが恐怖に似た感情を覚えていることに気づいた。

 念のため記述しておくと、彼は、言ってる意味がよくわからない人と話してても疲れない精神性を持っている。ただ、彼をまっすぐ見ているようで見ていない、コランダミーの夢見るような表情が怖かったのだ。

 そんな目をして見上げてくる少女に、腕に抱えたままの真っ黒な布をかぶせて結んで、そこらへんに放置して、走って逃げたい気持ちにすら駆られていた。

「花……花が枯れたらダメなのか?」

「枯れないよ!」

 だけどこの瞬間、ランタンを抱き壊しそうになったキリウを止めたのもまた、彼女の目だった。

「でもね、あたしもジュンちゃんのお花が好き」

 忘れていた愛しさが三倍になって戻ってきたみたいに、キリウは急に彼女に親近感を抱いた。それは、彼の弟が、兄を含めたこういう奴に優しかったことを思い出したせいかもしれない。

 どちらにせよ、少年の腕の中で、ガラスが割れる小さな音がした。

 そういうわけで片付けが終わって二人と一匹が倉庫を出た時、街はすっかり夕焼けに沈んでいた。

「…………夕飯……なに食べたい?」

「うのはな」

 キリウの腕もコランダミーの腕も跳ね除けて、宙を舞うトランは、何も言わなかった。喋れないから。