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100.電波少年漂流記

 列車のひときわ大きな揺れに人形が目を覚ます。

「キリウちゃん」

 寝ぼけた声で名前を呼ばれ、キリウ少年は連れが酔っ払いから回復したことを知った。そして、クソつまらない二人モノポリーを中断した。この時キリウはボックス席の通路側で、とある中年男と虫のようにボードゲームを睨んでいた。それをゲームと呼ぶならばの話だが。

 リップクリーム工場に唐辛子の粉末を投げ込みたいとでも言いたげな顔をしたつもりで、キリウは窓枠にもたれかかったままのコランダミーを見た。小柄な二人の間は、実際の距離以上に離れて感じられるものだった。

「おはよう。大丈夫?」

 彼は、メルポランタで潰れていたコランダミーの様子を気にしていた。コランダミーはこの列車に飛び乗ってすぐ、つきたてのモチのように眠ってしまっていたのだ。

「えっ。えっ、キリウちゃん? キリウちゃんんんん~~? ほんとなに、このロリロリ大明神は??」

 そんなところに、かように吐き気がするほど興味津々に割り込んできたのが、キリウの向かい側の席の男である。足元の真ん中に置かれた何かの段ボール箱、その上に置かれたポートフォリオ、さらにその上に広げられたモノポリーのボード、すべてそいつの私物だ。

 そいつは芸術家をしており、いまはキリウの客でもあった。どうしようもなくギョロギョロするガチャ目で、キリウとコランダミーを交互に眺めて、ニヤついた口元をフガフガ鳴らしたりはする。

 それでも、実家が金持ちであること以外にも、少しはいいところがあるやつだった。

「あたし、コランダミー」

 一方、まだ眠たげな大明神は、ろくに開かないまぶたをこすっている。

「そおか~。おはよう、ナントカミーチャン」

「やめてってば」

 彼女の顔の前で男が振ろうとした手は、キリウにおもちゃの札束でぺしと叩かれた。コランダミーが眠っている間にも、形を変えてさんざ繰り返されたやりとりだ。おどけるように跳ねた男の脚が段ボールにぶつかり、その背の街に壊滅的な被害がもたらされた。

 どっちらけた盤面を見て、キリウは何もかもが故意によるものだと悟った。そして、自分がこれから出会うカッパには一切の偏見を持たないようにしようと思った。カッパは割り勘にうるさいとか、ディスコでノれるとか、そういうのを。

 だが、本当に彼が心の底から嫌悪していたのは、カッパを特別扱いしないがために、カッパを見てカッパだと言うことすら悪だとされる、そんな風潮だったのかもしれない。

「キリウちゃんのお客さんでは?」

 男は、こみ上げる笑いを三倍は大げさに表現して、五で割った余りをエネルギーとして活用できるミトコンドリアを持っているらしかった。

「ないです」

「じゃあ、商品?」

 そう続けながら楽しそうに身を乗り出し、両手の指ともキツネさんを作ってきたそいつを、今度はキリウはデコピンした。口角から吹いた泡がとんできて気持ち悪かったからだ。もちろんそいつは身も心も傷つけられて喜びまくっていたが、キリウは掲げた手をそのままにつぶやいた。

「がれきで脳天摩り下ろすぞ」

 がれき――窓の外を流れてゆく白と黒の地平線の、主要構成物。尖ったザリザリ。大根おろしを作る道具。

 その半笑いの声を聴いて、男も思い出したのだろう。目の前の少年、モグリの売人について忘れていたいくつかの噂を。メレンゲを作るのが異様に得意だということ。走行中の列車から人間を放り出したこと。付き合うのは簡単だけど別れるのは大変なタイプだということを……。

「ミーチャンごめんねっ。怖いね、この兄さん」

 冗談じみた口調に反し、この時男はすでにいくらか小声になっていた。そしてごまかすように懐から取り出した竹トンボで、モノポリーの壊れた街に丸ごとトンボがけを始めた。

 そんなことはどうでもいい。手元の青のカードに視線を戻したキリウの目の赤は、缶詰のチェリーより澄んでいた。そこに記載されているボードウォークという場所が、一体全体どんなところなのか、想像もつかなかったからだ。

 宇宙と海とボードウォークと、どれが一番ウソで、どれが一番近いのだろう。

「でも、本当にお人形さんみたいだねぇ……モデルになってくれないかな」

「? 宇宙ってなんだっけ」

「ウチュー!? ヤツガハシ線の駅ならどこでも売ってると思うが、この辺でお目にかかりたくば、ドブ川をさらうしかないな」

 男は変な顔をしていたが、すぐにまたニヤニヤしまくって、首をかしげているキリウの手から小道具をむしり取った。キリウが中身を見たことのないポートフォリオも、ボードゲームごと乱暴に引っ込められる。隅に残っていたコマ代わりの鉛玉がふたつとも床に落ちた。その行方をどちらともなく気にしたようで、ぜんぜん気にしていなかった。

 また、列車ががたんと大きく揺れた。鉛玉を見失うのと同時に、キリウは自分の肩に何かが倒れ込んできてびっくりした。見ると、いつの間にか再び眠りに落ちていたコランダミーだった。

「起きろってば、コラ」

「ミーちゅぁぁん!」

 例によって割り込んできた芸術家は、恍惚とした表情でコランダミーを凝視していた。

「ミーちゃん……?」

 キリウが鳥肌立ちながら繰り返したあだ名が、しかし、コランダミーにとって懐かしい周波数であったことを、彼はまだ知らない。そしてそれが、夢うつつの彼女に幸せな笑みを浮かべさせるに足るものであったということも。

 そんなコランダミーをぐいと押しのけ、キリウは頭を振った。すぐ伸びてきた男の手も害虫にするみたいにブッ叩いた。いつからかキリウは頭痛持ちだ。それが今日も、内側で無数の虫が這い回ってるかのように痛みだしたからだ。

 そう、無数の……虫が。

「……で、話の続きなんですけど……」

「はーい。はい。キリウちゃんのくせにー。はいー」

 激しい貧乏ゆすりをする男の尻が、その下に挟まっている――白い虫たちをすり潰す。破裂した腹から灰白色の液体が飛び散り、シートの光沢のある布を伝い落ちる。段ボール箱に染みを作る。

 床を埋め尽くす白い翅の隙間に、先ほどの鉛玉のひとつが転がっているのが見えたが、やはりキリウは気にしなかった。寝返りをうったコランダミーの身体から数匹が飛び立ち、他のものに混じってパチパチと翅音を鳴らすのも、いまさら気にすることではなかった。彼は膝の上で触角を動かしているやつを何の感慨もなく握りつぶし、砕けた欠片と体液にまみれた手で、そのまま自分の襟だってさわれた。

 そんなものは実在しないからだ。今に始まったことでもない。

 ではいつから? 生まれた時から……ではなかった。けれどもう何百年も、キリウはずっとそうだった。そして、どういった経緯でそうなったのかはともかく、生きる片手間ではあるが、治す方法を探し続けてもいた。ただ雑音の混じらないラジオをもう一度聴きたくて。

 男が内ポケットから封筒を引っ張り出し、中身をキリウに見せて急かす。そいつがギョロギョロするガチャ目で、大げさに感情を表現してくれることは、キリウにとっては助かっていた。たとえ顔じゅう虫にたかられきっていたとしても、どんな顔をしているか分かるからだ。

 だからキリウも、なじみのあれこれが詰まったパッケージに、あとメルポランタを少しおまけしてやることにした。そしてまだ少しの道程がある次の駅まで、二人モノポリー以外の何かができたらいいなと、漠然と思っていた。