作成日:

9.悪趣

 ヤットコ地獄のその先輩は古き良き鬼で、責苦はきっちり与えれど、亡者たちには常に情を持って接していた。彼の深い情は同じ鬼たちにも等しく向けられ、そこから来る説教臭さを鬱陶しがる鬼は多かったが、反面、親のように彼を慕う者も一定数存在した。キリウ自身はそのどちらでもなかったが、しかし彼は、キリウの未熟で無慈悲な魂を何かと気にかけてくれた。

 彼はキリウが、亡者たちだけでなく同僚の鬼たちにもほとんど興味を示さないことに何か思うことがあったようだ。キリウが彼と同じ刑場にいた時間は短かったが、彼は愛着を持って勤め上げたヤットコ地獄が廃止されるとともに、未来を憂う言葉を残して地獄から去って行った。

 

  *  *  *

 

 それにしても電波地獄の子供たちに貸し与えられた傘はこのように真っ赤っ赤で、目立たないようにという気遣いが皆無の代物に見えたが、風の噂では試作品がそのまま使われているらしかった。そんなものを持たされているせいか、いつも縮こまっている基地嶋はもっと小さくなっているようキリウには見えた。

 L3まで来るとL1とは明らかに空気が異なっていて、透き通っているのにどこか見通しが悪く、深呼吸の仕方を間違えると身体の内側から刺さりそうに空間じゅうがチクチクしていた。指や髪の先端にも気が溜まりやすく、その場でじっとしているとふいに燃えるように熱くなるものだった。

 今ふたりが歩いているのは、どこまでも続くかのようなだだっ広い丘の上だ。足元にはいつの間にかひたすらに暗褐色の砂が広がっており、赤黒い空の下では他所と変わり映えがなく見えたが、よく観察するとこの砂は白っぽい粒や真っ黒な粒、他にも色々なものが混ざり合ってできていた。また、この砂は見た目に反して妙に重く粘着質で、蹴り払おうとすると顕著にそれらが感じられた。

 興味本位からか基地嶋が足先で砂を掻きわけると、すぐ下から湿り気のある泥が出てきた。それからワンテンポ遅れて、くらくらするほどの濃い血と腐肉のにおいが立ち昇り、かれは激しく咳き込みそうになって両腕で顔を覆っていた。

 ガスマスク姿のかれがそういう仕草をすることを、キリウは特に疑問には思わなかった。そもそもキリウはガスマスクがどんな役割の道具であるかを長らく知らなかったし、ある日とつぜん基地嶋がそのことを教えてくれた時も、かれが「ファッションだ」と言ったのを素直に受け止めていた。実際のところそれは真実で、たまたま近くにあった顔を隠せるものを使っているだけなのだそうだ。

 このとき基地嶋はふと気付いたように顔を上げ、そばに転がっていた砂のかたまりをブーツの底で潰した。それは本当にただの砂のかたまりだったが、内側はやはり湿り気があり、同じく濃い血のにおいが辺りにただよった。

 無言でそれらを埋め戻している基地嶋を見てニヤニヤしていたキリウに、かれが突っかかってきた。

「なに笑ってんだ……」

「血砂地獄の砂は生きてるから」

 キリウが言いたかったのは後半だったが、基地嶋は前半に反応したようだった。彼はきょろきょろと辺りを見回してキリウに尋ねてきた。

「ここ、刑場の中か。入っていいのか?」

「大丈夫。血砂地獄には鬼はぜんぜんいないし、散歩もしていい」

 キリウは尖った爪で、左手側のある方向を指さした。連なった丘のずっと遠くに大岩のような影のかたまりがいくつかあり、それらは黒い煙を巻き上げながらゆっくりと、ふたりから見て左側の奥に向かって動いていた。あれは『粉砕器』だ。耳を澄ませると、風の音の向こうから微かに奇怪な音が聴こえてくる。きゅらきゅら、じゃりじゃりと鳴くそれは、足元にあるものを粉々にして周囲に振り撒く粉砕器の音だ。

 キリウは、基地嶋の視力と聴力で遥か遠くのそれらを捉えられるかを気がかりに思ったりはしなかった。地獄にあるものは、そこにあると知ってさえいれば気付けるものがほとんどだからだ。実際のところ基地嶋は、それらが耕しているものが何であるかすらもすぐに気付いていた。

「あれ、亡者か」

「わかるか? 全部だよ、基地嶋。俺たちが踏んでるヤツらもだ」

「ぜんぶ?」

 基地嶋が、さすがにぎょっとしたように足元を見た。そこには先程までと何ら変わりなく同じ砂が広がっているだけだったが、かれの目には違うものに映ったようだった。

 向こうに行くにつれ、暗褐色の砂がより鮮やかで明るい風合いに見えるのは光の具合のせいだけではない。単純に、向こうの方がより後から砕かれた新しい亡者たちだからだ。正確には鮮やかな色とみずみずしさを保てるように、血砂地獄の獄卒たちがまるで庭園のようにきちんと手を入れているからだ。キリウは足元の生温かい砂を一掴み手に取ると、その中から亡者たちの骨の欠片でできた砂粒を選り分けて、基地嶋に見せた。

「風になった骨の色だよ、基地嶋。ここの亡者たちはめったに元の形に復活させないんだ。ああやって砕いてばら撒いた後は、擦れあって砂になるまでずっと放っておくの。生きたまま」

 言いながら、キリウは硬直している基地嶋の足元に目をやって続けた。

「かき混ぜられるとめちゃくちゃ痛いらしいぜ、基地嶋」

「気分わるいな、おいっ」

 引き攣った顔をして飛び退いた基地嶋の下で声無き悲鳴がしたが、この世の誰も気づかなかったのは仕方の無いことだった。再び少年たちが歩き出した時も、悲鳴は止むどころか無数に増えていった。

 今日ふたりがここに来てからずっと響き続けていたのだ。

「これも人手、もとい、鬼手不足のせいか?」

 石突が地面に当たらないよう傘を握り直しながら基地嶋が尋ねると、キリウは今日一番怪しいニヤニヤ笑いを浮かべた。不気味がって払いのける素振りをした友達の顔を、獄卒キリウがガスマスク越しに覗き込んだ。

「それが違うんだな、きちじまくん」

「なんだそのしゃべりかた!」

 不満げにキリウに軽く肩をぶつけてきたかれは、キリウの薄っぺらい身体に簡単に跳ね返されてよろけていた。

「ここはずっとこーゆー刑場なんだよ。道具とか工程は改良されてってるけど、当初の思想からして、亡者たちが生きたまま風にさらされて、砂になるまで放っておかれる刑場だから」

「それってほんとに苦しいんか?」

「L3の風をなめんなよ、きちじま。でも、そう思うヤツが多かったんだろうな。だから今はああやって、効率化のためもあるけど、最初から適当に砕いてブン撒いてる。似たような刑場は石の数ほど提案されてきて、でも雑すぎるってんで全部却下されてんだって」

 上機嫌なキリウの話を聞いているのかいないのか、基地嶋がまた立ち止まった。キリウが見ると、かれは何かを探すように注意深く辺りを見回していた。視線だけでそのことを問いかけたキリウの方を見ずに、かれはごく短く答えた。

「子供の声がする」

 ――キリウはつい、自分たちが子供だろうと笑い出しそうになったが、的外れなうえ無益な意見だとわかっていたのでやめた。代わりに自分の地獄耳で友達の関心事の発生源を探し当てて、かれに教えた。

「あそこだな。子供の亡者がいる」

 キリウが示したのは先程眺めていた方角ではなく、右手側のなにもない丘だった。

 怪訝そうな顔をした基地嶋の折れそうな腕を引いて、キリウは足早に丘の上へと駆け上がっていった。やがて向こう側にひっそりと顔を覗かせたのは、そう離れていないところで何の脈絡も無く現れた崖と、その下方へと続いていく不自然な段々地形だった。

 区画整理を繰り返された地獄にはしばしば由来のわからない地形があり、これもその一種なのだろうとキリウは思った。一方で、身を伏せたふたりが真に目を留めたのはその片隅だった。そこには簡素なあばら屋のようなものが立っており、風でぼろぼろになった屋根の下に、古びた粉砕器が数台並べられていた。そして基地嶋の目が見開かれたのは、そこでこちらに背を向けて立っているひとりの獄卒と、その足元にうずくまった人間の子供の姿を捉えた時だった。

 年若すぎるために少年か少女か判りにくいが、おそらくそれは少女だった。熱を孕んだ暗い大気の揺らぎに隔てられて、言葉にならない彼女のぐずる声はやけに遠く感じた。

『こどもが、ここに?』

 基地嶋は声を潜めすぎてテレパシーでキリウに尋ねてきた。かれのテレパシーの練度の低さから内容はだいぶ端折られていたが、キリウには、なぜ子供の亡者が『賽の河原』ではなくここにいるのかと尋ねられたことが理解できた。

 この時またしてもキリウは、自分たちも子供だろうと不毛な返事をしたくてたまらなくなったが、友達に嫌われたくないのでやめた。代わりに笑いを堪えながら、努めて落ち着いて説明した。

『よっぽど賽の河原で聞き分けが悪かったとかじゃなきゃ、親の責苦のためだろ。親の目の前で嬲り殺すために連れてこられた、生きた子供の魂の欠片なんだよ。ほら、見て』

 キリウの言葉の前半は自虐が含まれていたが、呆然としている今の基地嶋にはまるで伝わらなかった。

 足元でぐずぐずと泣くばかりの子供を前に、猫背の獄卒は明らかにうんざりした様子で佇んでいた。ようやく気だるげに伸ばされた彼の手に触れられたとき、少女は身を縮こめて更に喚き始めたが、彼は僅かに苛立った所作で淡々と少女の腕を捩じり上げただけだった。そして、あーんとブザーのように響く声がどこまでも長く、甲高くなって裏返った瞬間、彼女の腕は肩口から反対側に折れ曲がっていた。

 ぎゃあぎゃあと泣き叫びだした少女の声が途切れ途切れなのは、ちょうどキリウたちから見て獄卒の身体に隠れたところで、彼が少女の身体を何度も蹴飛ばしているからだろう。ドツン、ドツンと中身の詰まったものが叩かれる鈍い音とともに、彼が低い声で何やら脅すような言葉を発しているのが聴こえてきた。

 ――呼んでみろ、おまえの馬鹿なママを。ママに聴こえるように大きい声で泣くんだよ。ママが助けてくれるからな。――

 少なくともキリウにはそう聴こえた。そして哀れな少女の喚き声は、彼女が望む通り、すぐに彼女の母親を呼ぶ血まじりの絶叫に変わった。身体が裂けんばかりに繰り返し叫ぶその声は、痛ましさを超えて美しく神秘的にすらキリウは感じていた。

 キリウは興奮気味に、隣の基地嶋にテレパシーで喋りかけた。

『基地嶋、見たことないでしょ? L1ではやらないからな。L2かL3あたりの刑場でやることが多いのは、生きた魂の欠片が地獄のエーテルに耐えれる限界が、L4くらいだからって言われてるから。L1でやらないのは、L1はそもそもそんな難しいことする場所じゃないし、こういうことするには獄卒の方にもリテラシーが必要だからな』

 キリウが言う通り、あの少女は亡者を苛むために地獄へ連れてこられた近親の生者の魂の一部なのだ。ここにばら撒かれている亡者たちの中に、彼女の罪深い母親がいるに違いない。母親の魂は今この刑場のどこかで、娘の泣き叫ぶ声が歪んでいくのを聴いている。自らの罪を悔やんでいる。悪趣味極まりないため賛否両論のある手法だが、この責苦には大きな効果が認められているのも確かなのだ。

 興奮からキリウは珍しく、彼女の母親の罪を地獄データベースに問い合わせていた。キリウ自身が興味を持ったわけではないが、きっと基地嶋は彼女たちの話を聞きたいだろうと思ったのだ。しかしキリウが横をちらっと見たとき、いつの間にか基地嶋は、両手で耳を塞いで下を向いていた。

『ねえ基地嶋、見て』

「みたくねえって」

 ぼそりと口に出した基地嶋を見て、キリウは黙り込んだ。

 気付けば少女の悲鳴はほとんど聴こえなくなっていたが、苦しげな呼吸と小さな心臓が送り出す血の奔流の気配が、獄卒のキリウには離れていても感じ取れた。ずっとキリウの全身に染み付いてきた、何千回、何万回、何億回と繰り返される生と苦痛と死の気配だ。それから少しの間があって、粉砕器の稼働音が勢いよく響き渡り、ばりばりと子供ひとり分の身体が細切れになっていった時もキリウは黙り込んだままだった。

 彼女の母親の罪は、幼い彼女を誘拐して我が物にしたことだった。

 擦り切れるような地獄のエーテルに乗って、新鮮な血肉のどこか甘ったるくてべたつくにおいが流れてきた。同じにおいを基地嶋もガスマスク越しに感じたのだろう。かれは亡者たちの野原にぺたりと腰を下ろして、辟易したように呟いた。

「はぁ。ガキからすれば、とんだめいわくだな……」

 基地嶋の表情はキリウからは見えなかったが、微かに震えて聴こえたその声に、キリウはかれとL1を経って以来始めての困惑を覚えて首を傾げた。キリウにとって、ここまで悪態をつきながらも種々の刑場を横目に歩いてきた気丈なかれの姿と今の姿とには、いくらか隔たりが感じられたからだ。

「でも基地嶋、さっきの、ペットを飼い主に殺させる地獄は平気だったろ」

「あいつらは魂がない偽物だ。こっちは人間だぞ」

「そりゃ、信仰の無い畜生は地獄に来れないし。来れるなら連れてくると思うよ」

 そう言ってキリウがひとりで頷くと、基地嶋もだいぶ遅れて自棄気味に頷いていた。かれはそのまま両手で頭をもさもさ掻いて、ぽつりとつぶやいた。

「おれ……、前に、言わなかったっけ」

「なに?」

「いや……」

 このときキリウは、基地嶋のそれが単純な問いかけではなく、まんざら確信じみたニュアンスであることにきちんと気づいていた。

 何かを訴えるような基地嶋の眼差しを僅かに躱したキリウの目は、かれの手首で鈍く輝くダミー個人用端末を捉えていた。それがどうやって用意されたものかキリウは知らないが、一見してはぐれ鬼だとばれないようにするための、見た目だけならとてもよくできた小道具だ。以前にキリウがかれから聞いたところによれば、地獄に点在するはぐれ鬼たちは独自のコミュニティを形成しており、この過酷な地獄で生き抜くための知識と知恵を共有しているのだそうだ。

 キリウはそうまでして彼らが地獄に留まろうとすること自体に一種の感銘を受けていたが、彼らがそうする理由には、まったく興味が無かった。