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8.コンプラ色の憂鬱

 魂を通して見る世界は皆違っていてバラバラだ。実体を持たない地獄の住民たちが、自分の目に映るものだけで互いの素性を真に把握することは難しい。

 例えばキリウという獄卒の少年は自らを極彩色に染めたので、地獄の誰から見ても極彩色の存在ではあったが、それが彼自身が鏡で見たのと同じ風合いで他者から見えているのかはやはり定かではなかった。正味なところ獄卒たちは、自分が責苦を与えている目下の亡者が人間なのかイカなのかすらも判らないのだ。見た目が九割という言葉もある俗世から来たばかりの鬼たちにとって、入獄後に最もギャップを感じるのはそこだと言われている。

 とはいえそんな世界でも全くのカオスに陥らないのは、そもそも地獄をはじめとした霊界自体が仏の教えを理解し得る魂のためのものなので、ほとんどの者は人間の魂だと考えて差支え無いからだろう。稀に徳の高いカマキリなどが落ちてくることもあるが、そんなレアケースを考慮する必要は往々にして無い。

 さらに言えば直近の生前の齢と魂の大きさは殆どの場合に一致しているので、子供の鬼が子供ではないということもまず無いと考えられた。特にこちらはいくら外見を変えようと隠せないし、仮に大人のくせに魂が子供だなんて鬼はもっとバカにされる対象なので、これも互いを推し量る有力な材料となった。(もっとも、そのせいで子供の鬼が他の鬼から絡まれやすいという問題に繋がってもいたのだが。)

 それでも――そのうえで目の前にいるこの鬼は、誰が見ても河童なのだろうな、と管理鬼のルヅは思っていた。

 その鬼は閻魔の直属という名の使いっ走りであることから管理鬼たちの間では有名で、少なくともルヅの目には河童の姿に見えていた。そいつは影では他のどの鬼からも河童と呼ばれていたし、言葉に出さなくとも河童だと思われていた。ただ、なんとなく面と向かってそう呼ぶ者がいないうちに「河童と呼ぶと呪われる」という噂がセットで広まってしまい、どこかアンタッチャブルな存在となっていた。

 そして今、ルヅはまさにその河童からメンテナンス室に呼び出され、直近の研修で自分がしたハラスメント行為についての注意を受けていたのだった。

「それがパワハラですか」

「うん」

 暗い目の管理鬼がしらじらしく訊き返したので、河童は湿ったため息とともに肯定した。血と腐敗した肉の悪臭に慣れた鬼でも顔をしかめる河童特有の生臭さが、低い機械音が響く部屋にモヤリと広がった。それから河童は「研修の後に取っているアンケートでね」とも付け加えた。

 管理鬼という立場の鬼は、新入りの獄卒向けの研修を担当することがある。実入りが悪く面倒な仕事であるためすすんで参加する者は少なかったが、ほぼ義務なので、ルヅもまた定期的にそれらを受け持っていた。しかしルヅは鬼の中でも特に殺伐とした雰囲気を漂わせているうえ、自分が無能だと判断した者を差別的な言葉で罵倒したり、気に入らない態度をとる者を威圧して脅したりするところがあった。

 そしてその被害に遭った受講者らの告発により、今回それらがパワハラ(=パワーハラスメント、職務上の上下関係を背景とした嫌がらせ)であるとして、こうして注意を受けることと相成った。

 地獄に河童の鬼がいることを知っていても、その河童が下からまぶたを閉じることを知っている者はどれだけいるだろう? 河童の特徴的な顔つきを無遠慮に観察しながら、ルヅは心のどこかでそう思った。

「研修に参加していた複数の鬼から、同じ報告が上がっていたんだよ」

「そうですか……」

 わざと軽薄に頷いたルヅを、河童が無い眉根を寄せて見た。

 嫌がらせは悪だという先進的な概念が地獄に入ってきたのは、近年のことだった。ほとんどの魂が元人間であるという性質上、人間だった頃のモラルを持ち込みたがる鬼は以前からしばしばいたはずだが、長らく一笑に付されるだけだったのは、地獄にいるうち強化された鬼たちの残虐性の影響だろう。

 しかし現在では働き手不足から、皆に喜んで働いてもらえるようにと地獄の労働環境は少しずつ変化していた。もちろんそれは鬼たちが自発的に行っていることではなく、今の閻魔こそがそれを推し進めているのだ。だからルヅは、以前からずっと同じやり方で行ってきた嫌がらせ行為が今更問題にされたことを不思議には思わなかったし、今後はもっと巧妙で陰湿なやり方に変えなければならないことも理解していた。

 が、理解していることとそれに倣うこととは違うのだった。ルヅは、今すぐこの場で地獄タバコに火をつけて河童の悪臭を塗り潰したい衝動にかられていた。知ってか知らずか、河童が再びのため息とともに続けた。

「地獄にもコンプラ(=コンプライアンス、ここでは社会規範に従って業務を行うこと)が必要なんだ。できれば馬鹿馬鹿しいと思ってほしくない」

「善処します」

「それからキミは女子供が扱いにくいと思っているのかもしれないけど、男なら粗末に扱ってよいというわけじゃないからね」

 河童が知ったように釘を刺したそれが、部分的には事実だがほとんどは的外れのよう感じたルヅは、余計に殺気立ちつつ愛想黙りをした。

 食えない河童だ、とルヅは心で毒づいていた。元よりルヅは河童が食えると思ったことなど無いが、この時ルヅの頭によみがえったのは、しばらく前に『邪淫で落ちた亡者を女性の魂の獄卒に担当させてはならない』というお達しが出た時の記憶だった。結局、どう計算しても現場が回らなくなるためそんな話は無くなったが、わかりきっていたそれを改めて証明するために余計な手間をかけさせられたことは、ルヅに限らず管理鬼たちの魂に遺恨を残していた。

 加えてルヅ個人は、依然としてどうしようもない無能や不定期に子供も採り続けて現場に丸投げしてくる当局のやり方にも不満を抱いていた。しかしルヅは、それらをこの河童にぶつけても意味が無いこともまた承知していた。今の閻魔は、旧態依然とした地獄を変えるのだと宣って次々とルールを改定している真っ最中だ。そのために河童は常に現場との調整に奔走していると見え、ここで無駄に嫌がらせをしたところで、この河童がさらに禿げ上がるだけのようルヅには思えた。

「とにかく、不出来な者を貶める言葉は控えるように。ペナルティは今期中ということで適用してあるからね」

 鬼が足りない地獄において、鬼へのペナルティといえば減給の他に無い。それもあまりに減らしたせいで逃げられては――条件を妥協して転生して行かれてはかなわないから、差し引かれる量もそこそこ程度に留まっていた。よほどのことをしでかさない限りは行動を制限されることも、ましてや地獄から追い出されてポイントが無駄になることも無いのだと知れ渡っている今、このペナルティがルール違反の抑止力になっていると本気で思っている者はいないだろう。

 これで何がコンプラか? 当事者にそれを皮肉る資格があるかはさておき、ルヅが頭を下げて無言で立ち去ろうとした時、河童がふいにルヅを呼び止めた。

「待って、もう一つ。そういえば、例の電波地獄の彼、他の鬼を連れてるみたいなんだけど」

「はい?」

 忘れかけていたものを急に引っ張り出されて、ルヅは半笑いを浮かべそうになった。目の前の河童は、ふと思い出したというよりはどこか狙いすましたような顔をしているように見えた。

 河童が言う電波地獄の彼とは、先日、ルヅが調査業務を割り当てた獄卒キリウのことだ。元はと言えばルヅは河童からの要請で、件の業務にキリウを『キリウ自身が指名されたことを悟らせずに』送り出さなければならなかったのだ。その河童が水かきの張った手で映像端末を操作し、階層間エレベーター入口の監視記録映像を映し出す。

 映像に映り込んだ扉に書かれた文字から、それがL2−3間のものであることは明らかだった。しかしそこを上機嫌そうに通っていったキリウの後ろにくっついていたガスマスクの少年は、少なくともルヅには全く見覚えの無い鬼だった。

「電波地獄の鬼ではないですね。それにしてももうL3か、薄々思っていたがべらぼうに脚が速い」

「同じ鬼といるところがL1の昇降機にも映ってる。単に知り合いと乗り合わせたわけではないらしい」

「同行者の申請はありませんでしたが」

 今いちど無心になって、ルヅは当該時間帯の階層間エレベーターの利用者ログをめくった。記録されていたのは当該個体から読み取られたIDと、データベースにそのIDが存在しないために個体識別に失敗したことを示すエラーコードだけだった。少し遡ってL1-2間のものも確かめると、やはり全く同じ様子だった。

 それが事実ならばキリウと共にいる少年は、いわゆる『はぐれ鬼』であることが推測できた。

 データベースに登録されていない幽霊のような鬼たちが俗にはぐれ鬼と呼ばれていることは、地獄をめぐるオカルト話のひとつとして広く知られている。ルヅもまた、そういった鬼がまれに監視システムに引っかかっているという噂をそれなりに有望な筋から耳にしたことがあり、今見ているものが事実ならば、少し面白い話なのではないかと思い始めていた。

 とはいえ面白がってばかりもいられない理由があるとすれば――。ルヅは横目でちらりと河童の様子を窺った。映像端末を見つめている河童は、表情が乏しい中ではだいぶ胡乱げな顔をしているように見えた。

 ルヅが懸念したことは二つある。一つ目は、当然だが、よりによってルヅが担当している刑場の少年獄卒がそこに居合わせていることだった。管理鬼は獄卒たちの監督責任を負うような立場では決してないはずだが、コンプラを気にし始めた今の当局が今後どんな面倒なことを管理鬼に求めてくるか、ルヅには想像がつかなかった。特にルヅは電波地獄を担当するようになって以来、他の管理鬼から『先生』と茶化される程度には、何かと彼らをせっついて管理してきた実態がすでに存在してしまっている。

 そして二つ目は、この件を河童が見咎めたことそれ自体だった。なぜなら現体制において、はぐれ鬼を含め地獄に無数に存在する厄介なもの・ことたちを『前任者の遺物』と称してしゃかりきになって片付けている鬼こそが、ここにいる河童だからだ。

 とにかくどう転んでも面倒な事になるとしか思えず、悪寒から腕を組んだルヅをよそに、河童はごつごつした手で頭の皿を押さえていた。少しの後、やはり首を傾げて河童が言った。

「いま確認してもらったんだけど、L1の事務処で、出発前に対面で問い合わせが来ていたそうだ。友達を連れて行っていいかと……申請に必要な項目を提示したら取りやめたそうだが」

 この時、また少しの間があった。

 ルヅはジェスチャーだけで河童に断ると、硬い動きで回れ右して、一瞬だけ口から大量の炎を吐き出した。それから深呼吸してじりじりと熱が残るエーテルを胸いっぱいに吸い込んだ後、うんざりした気持ちを隠しきれずに項垂れた。

「なんであれは時々信じられないくらいバカになるんだ。やさぐれてるのか?」

 河童も、傾げた首をさらに傾けてつぶやいた。

「彼は転生せずにずっと地獄に居たがってると聞いてるよ。なぜこんな、彼自身の評価にとって不利になることをするんだろう」

「ガキだからですよ。オレは前々から、あれがいる刑場を担当することが多かったから解ります。あんたらは気づいていないだろうが、あれは電波地獄のガキどもに混ぜられるようになってから明らかに精神が退行している。愚直にコツコツやっても望みは叶わず、向上心も役に立たず、尊敬に値する者もいない今の地獄の惨状にようやく気付いて、魂が腐りだしているわけだ。上からはわけのわからんことを命令され、横からはスキあらば玩具扱い、もっとも今さらこんな地獄のどこへ行こうが何も変わらない――」

 べらべらとまくし立てるルヅの言葉を浴びているうち、河童の傾いていた首の角度がひょこりと戻っていた。なぜかこの流れで自分たちに矛先が向いたらしいことにひどく驚いたのか、河童はじっと探るようにルヅを見ていたが、ルヅは気にせず明後日の方を向いて最後まで吐き捨てた。

「――そもそもこの無駄な反抗期の根本は、ろくに話も聞かずに電波地獄に押し込んだ上への不信感でしょうよ」

「う、うん。だからといって調査任務に、それもなんで地獄に居るんだかわからないような鬼を、連れて行っていいことにはならないけど」

 河童が戸惑い気味の含み笑いを浮かべているのを見て、ルヅはフンと息を吐いて再び腕を組んだ。

 だいたい、いつまでも転生せずにやたらとポイントを貯め込んでいるキリウのような鬼は地獄の当局から目をつけられやすいのだ。その主な理由は、大量のポイントを使ってあまりにおかしな転生の条件を指定されてしまうと転生局で処理できず、諸々の調整が難航して業務に差し支えるという内々の事情なのだが。だからといって地獄に限らず霊界において魂の無償労働は原則として認められないため、仮にルールで上限を定めたところでそこに達した鬼は転生する他に無く、それは今の鬼手不足に喘ぐ地獄が選ぶ道ではないことは自明だった。

 だから当局は渋い顔をしながらも、時折現れる転生しない鬼たちをそのまま働かせつつ、頃合いを見て半ば強制的に転生『させる』ことで処理しているのだ。それも使わずじまいのポイントが多ければ多いほど結果的にタダ働きになり都合が良い。精神的に疲弊し、来世のことなど考えられず、今すぐにでも逃げるように転生したくなるよう追い込む。そんな邪悪な仕事の細分化された一工程に関わった鬼は、ルヅの他にも地獄じゅうにいるはずだ。

 そういうわけで爆弾同然のキリウの肩をルヅが持つメリットも皆無なのだが、先程ルヅは日頃のストレスからキリウの愚行を庇う形で当局への不満をぶちまけてしまったので、それをごまかすためならば獄卒思いな管理鬼のフリをするのもやぶさかではなかった。何の嘘も無いといった佇まいのルヅをどう思ったのか、河童は尖った指先で頭髪をいじりながらぼやいた。

「まあ、おれもただ、これに関して彼と付き合いのあるキミの意見を聞きたかっただけなんだ。実際のところ問題は無いと判断されているから、こうして堂々とカメラに映ってても放っておかれているんだろうけど……」

 その口ぶりではまるで河童より上の者がそう判断したかのように、そしてハラスメントどうこうよりこの件で自分が呼び出されたかのようにルヅには聴こえたが、ルヅはもはやそれらをわざわざ言葉にはしなかった。代わりに、もともと尖っている口元をさらに尖らせている河童の横顔に向かって、注意深く尋ねた。

「正直こっちも大変なんですよ。代わりが効く歯車でなければならない鬼に、名指しの仕事なんて初めて聞きましたが」※初めてではない。ルヅは調べたので知っている。

「キミが知らないだけで時々あるものだよ。彼が選ばれたのは、いくつかの基準で鬼たちを比較したときに最も適していると判断されたからで、特別なことじゃない」

「ああ、脚が速いですしね。とにかく、良い話か悪い話か知らないが、マシな歯車をひとつ持っていかれて困ってます。すぐ戻ってきますかね? 電波地獄のカスどもも、おもちゃが減って寂しがってる」

「まあ……。そこをなんとかするのが管理鬼の仕事だよ。新しい歯車もすぐ届くから、どうにか頼まれてくれよ」

 戻ってくるかと訊いたのに、か。これもまたルヅは言葉にせず心の中に呑み込んだ。そして、河童という生き物が存外によく喋ることに感謝した。

 その一方で再三の溜息をついた当の河童が、今度こそふと思い出したようにルヅに尋ねてきた。

「それと、ところでキミは……、そろそろ毛を何色にするかくらいは決まったのかな」

「は?」

 意味のわからない唐突な質問に顔を上げたルヅを、相変わらずの河童の湿った眼球がじっと見つめていた。河童は、明日の天気の話でもするのと同じくらい当たり前の態度で続けた。

「地獄では誰もが未来ある魂なんだ。つまらないペナルティなんて貰ってないで、早くキミ自身のために幸福な転生ができるよう、おれたちはサポートしたいと思ってるよ。ちなみにおれは、生前に近くの人里に住んでた三毛猫のオスが好きだったんだ。飼い猫以外の道も楽しいかも知れないね」

 それを最後まで聞いて理解した瞬間、ルヅは骨の髄から鈍い痺れが広がり、後頭部が一気に熱くなったのを感じた。

 河童が仄めかしたのは、ルヅが定期アンケートに書いた転生希望条件と密接に関わりがあることだったからだ。ルヅが転生先として希望しているのは、昔から今までずっと、温暖な都市部の金持ちの飼い猫だった。

「それじゃあ、よろしく頼んだよ」

 そう言って踵を返した河童を、ルヅは思わず殺意を満載した目で睨み付けていた。プライバシーに関わる情報の目的外での利用はいくら地獄でもダメだろうということを、この河童に指摘するためにどうするべきかを、ルヅは咄嗟に考えなければならなかった。しかしコンプラを馬鹿にした手前、何もかもが一気に面倒くさくなってしまい、結局は開きかけた口を噤んでしまった。

 ただひとつだけ補足するなら、河童はほんとうに塵一つの悪意もなくルヅに転生先の話を振ったのだ。アンケートに正直に回答するという、地獄に対する自分のたったひと握りの誠実さを小馬鹿にされたようルヅ当人は感じていたが、実際のところ河童には、プライバシーに踏み入ることで相手を貶めてやろうなどという意図は一切無い。それは河童自身が少し古い時代の生き物であることを差し引いても、だからこそ余計に質が悪いとしか言えなかったのだが。

 そんなことはどうでもいいのだ。ここは地獄、精神の果ての地の底。罰する者も罰される者もどちらかといえば徳が低いこの場所で、鬼の上に立つ者がどこから見てもまともであるだなんて都合の良いことを、一体誰が望むだろう?

 河童の黒い甲羅は、ぺちぺちと湿った足音を立てながら、部屋の外の暗い長く廊下の向こうへと消えていった。