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7.重金属王

 キリウは基地嶋がなぜはぐれ鬼なのか、なぜ鬼になったのかも知らなかった。まったく知ろうとしなかったわけではないが、かれも覚えていなかろうと長らく思い込んでいたし、実は覚えているらしいことが判明した後も、かれがすすんで話したがるタイプではないので訊かなかった。

 だいいちキリウ自身も、パーソナルなことを根掘り葉掘り訊かれるとストレスが溜まる質なのだ。キリウは過去のことにも未来のことにも興味が無い。キリウには生前の記憶がまったく残っていないし、転生も絶対にしたくないと思っている。だから初対面の鬼から興味本位であれこれ尋ねられるのも好きではなく、とかく転生したくないのだとあちこちで言い返していたら、他の鬼に悪影響を与えるからやめなさいと偉い鬼から嗜められてしまったこともあった。

「光の端っこ見るんだよ。で、幽体離脱しながら、えいって斜め下に跳ぶ感じ」

 ――キリウのひどく言葉足らずな『火乗り』の説明を聞きながら、基地嶋は相変わらず釈然としなさそうな顔をしていた。

 火乗りは燃える荒野を駆けるための鬼の体術だ。キリウたちのような鬼は、核となる魂を鬼の身体に入れ込むことで作られている。だが火乗りにおいては、むしろ魂に鬼の身体を一時的に取り込むことで身軽になり、炎を伝っての高速移動を実現するのだ。しかし実際にこれを会得しようとする鬼があまり多くないのは、火の気のある地形でしか使えないという制約やその他の危険性などよりも前に、そもそも割り当てられた刑場で働くだけのほとんどの鬼たちにとっては必要のない技術だからだろう。

 キリウはもう一度コールブラックの荒野に爪先で線を引き、そこに立ったあと、地面の無数のひび割れに沿ってちらちら輝く炎のラインを確認した。それから所在なく動かしていた手を降ろして一呼吸置き、基地嶋の手首をぐいと引いて、おのれが言った通りのことを実演した。

 次の瞬間、風に吹かれたように掻き消えたふたりの輪郭はオレンジ色の光となり、足元の炎に溶け込んでいた。その炎がぶわっと膨らんで地を走った直後、あっという間にふたりの身体は十数メートルも向こうに投げ出されていた。

 ざりざりする地面に顔面から突っ込みそうになった基地嶋の身体を受け止めて、キリウは軽く言った。

「そんな難しくない。俺も、ヒマで外走り回ってるうちに覚えたし」

「そうなんか……?」

 キリウの腕からぬるりと抜け出した基地嶋は、自分の身体を支えきれずクラゲのように地面にへたり込んでいた。慣れないうちは、魂から戻った直後の身体が元通り動けるまでに時間がかかることがあるのだ。キリウが助け起こそうとすると、しかし基地嶋はそれを遠慮して、ふらふらと自力で立ち上がった。

「おれがこれできないと、キリウがはやく帰れないからな。しっかり覚える」

「へへへ。俺はべつに早く帰りたくないよ。それに、今みたいに俺がくっついてやればいいじゃん」

「おれにもプライドがあるのよ」

 身体の違和感を払うように細い手脚を伸ばしていた基地嶋は、ガスマスクの奥の黒い目を伏せて微笑んだ。

 プライドという言葉がどれだけかれ自身の気持ちを正確に言い表せているのかは定かでないが、本当のところ基地嶋は、生前の年齢がおそらく今のキリウよりも上なのだそうだ。

 キリウはひ弱な基地嶋をたびたび庇護の対象として扱っており、基地嶋も素直にキリウに頼ることが多かった。この関係は見事にバランスが取れていて、少なくともこれがふたりの仲に悪い影響を与えたことは、最初から最後まで無かったと言い切って差し支えは無いだろう。

 

  *  *  *

 

 この旅では、できる限り他の鬼たちと顔を合わせずに済ませようとキリウは思っていた。基地嶋はその理由を、はぐれ鬼である基地嶋が無闇に他の鬼の目に触れるとトラブルになるからだろうと思っていたようだが、それは誤解なのですぐにキリウは訂正した。

 なぜなら実際のところ、他の鬼と関わって面倒ごとが起きることを心配しなければならないのは、キリウも全く同じだからだ。その点についてはむしろ、愛しの電波地獄にこそキリウに共感してくれる者は多く居るのかもしれない。弱っちそうな子供のなりで不用意に地獄をうろついてなどいたら、おかしな獄卒に絡まれてかなわないのは茶飯事だと、彼らは知っているだろうから。

 亡者に向けるべき暴力性と残虐性を持て余して、手ごたえ欲しさに自分より弱い鬼に絡む獄卒はややいるものだった。特に近年は獄卒の質が悪くなっているのか、鬼の母数が減っているにも関わらず、その手のトラブルは増えていた。地獄の歴史上でも時折指摘されてきたことだが、そもそも来世を選ぶという私欲のために地獄で鬼をやってやろうと率先して考える魂の、どれほどが真に善良なのだろうか? ただ定められたボーダーを下回らなかったから亡者にはならなかっただけで、潜在的には亡者と何も違わないであろうことが窺える魂は鬼の中にも多かった。

 さらに地獄で過ごす時間が長くなるうち、鬼は実に色々なものを忘れていく。生前の記憶も、地獄での生活に不要な部類の欲や感情も。その果てに残るのが悪趣味なほどの暴力性と残虐性と、集団行動と噂話に必要な幾許かの協調性だけならば、それはあまり健全な世界ではないのではないかとキリウは(他の世界を知らないなりに)疑問に思っていた。そして元来無いものを育めるほどの懐の深さは地獄の谷には無く、あるのは魂ごと焼き焦がして灰にする炎ばかり。

 だからこそ鬼は適性が重視され、鬼手不足のくせにいまだに適性だけはスカウトの際に見るのだと――そう担当の管理鬼がしつこく繰り返していたのは、今にして思えば協調性に欠けるキリウ、あるいは足りないものだらけの全ての獄卒たちへの恨み言だったのだろう。

 さて、他の鬼たちを避けるセオリーとしては、とかく刑場の周辺に近づかなければ大丈夫だろうとキリウは思っていた。ところがいざ身を潜めながら地獄を歩いてみると、地獄バスが通っているところやシャフトへのアクセスが容易なところでは、木っ端の鬼たちの姿をしばしば見かけるものだった。

 基地嶋を担いで平坦な『街道』を疾走していたキリウは、周囲に他の鬼の気配が無いことを確認すると、カカトから火花を散らしながら減速した。長い長い制動距離を経て立ち止まり、キリウは小脇に抱えたままの基地嶋に声をかけた。

「基地嶋、酔ってない?」

「……うそだろ」

 そう一言、ぼそりと呟いた基地嶋はもはや藁束のようにぐったりと垂れ下がっていた。そのままキリウが落ち着きなく歩き出しても、基地嶋は膝から下で地面を掻きつつ、大人しく引きずられていた。

 キリウが走ってきたのは『街道』と呼ばれている地形だった。それは見た目には街も道もあるわけではなく、地獄の物流を支えられるよう整備された地形のひとつが、歴史的経緯からそう呼ばれているにすぎない。しかし適度に硬くきめ細かい地面はとても走りやすいので、火の気こそ排除されているものの、火乗り以外の方法もあることを基地嶋に伝えるべくキリウは走っていたのだ。

 ただしそのことを説明し忘れていたので、基地嶋からすれば、なぜか急にキリウが走り出したようにしか見えていなかった。基地嶋が、垂れ下がったままぼやいた。

「はやく帰る気がないやつの速さじゃないだろ……」

「速いと楽しいじゃん」

「刹那主義者め」

 基地嶋がようやく身体を動かしてキリウの腕を解こうとしたので、キリウは名残惜し気にかれを解放した。キリウは頭陀袋から、近場の祠で拾っていた供養の水を引っ張り出して基地嶋に差し出した。

「基地嶋、楽しい?」

 キリウの考え無しな質問に、考え無しに頷いた基地嶋は、ガスマスクをずらして瓶に口をつけた。しかしふいに動きを止めて、何かを察知したねずみのように顔を上げた。

 少し遅れてキリウも同じものを察知していた。基地嶋がガスマスク越しにも分かる微かな緊張感を持って、短いテレパシーで囁いた。

『キリウ、鬼車がきてる』

 キリウは無言で頷き、基地嶋とともに街道沿いの背の低い藪に身を隠した。しばらくじっとしていると、ちょうどふたりの進行方向の向こうから、荷を満載した鬼車の恐ろしげなシルエットが近づいてきた。

 鬼車(おにぐるま)は地獄で物品の運搬をするための力車だ。鬼の身体を模した有機的なデザインが真っ先に目を惹くが、もう一つの大きな特徴は、その車体じゅうを軋ませているかのような独特の走行音だった。鬼車のぎしゃぎしゃと粘着質な走行音は、大気中のエーテルの濃度にしたがって複雑に反射される性質を持ち、少し離れたところからはまるで化け物の唸り声のように聴こえる。今まさに横を通り過ぎていったその音に、聴き慣れているはずのキリウも思わず地獄耳を塞いで息を潜めていた。

 それら外見と音の特徴から、鬼車は地獄の景観を崩さないとしてよく利用され、現在では大量の荷を少ない力で運べるよう様々な改良が重ねられていた。鬼車の車夫の募集は今も昔も多く、他の鬼とあまり関わらずに黙々と働きたいタイプの鬼たちには人気のある仕事だった。

『行ったぽいね』

 キリウは藪から顔を出さずに周囲を窺ったあと、そっと外に出た。

 鬼は魂の気配を察知することができるが、普段から見えているわけではなく、注意深く探ろうとしなければたいていは見えないものだ。キリウの思った通り、前方不注意と運行の遅れが許されない鬼車の車夫はキリウたちに気付くことなく、彼の仕事のために街道をまっすぐ進んでいった。

 走り去って行く鬼車の振動の重みから、キリウはふと、あの鬼車の荷は溶解銅なのだろうと思った。

 地獄の責苦には、ドロドロに溶かした金属をつかうものがある。例えば溶けた金属を亡者の体内に注ぎ込む責苦が採用された刑場はいくつも存在し、現役の獄卒でも、どれがどれであったか混同するほどバリエーションが豊かだった。溶解銅はそのために調合された金属様のかたまりで、現場では単に銅とか鉄とか呼ばれることが多いが、実際にはより効果的な苦痛を亡者に与えたり、がさつな獄卒でも扱いやすいようにといった工夫が凝らされている。これも鬼車と同様に常に改良が続けられており、溶かさずに焼いて使うなど用途が異なる金属は、また個別に開発されているという丁寧ぶりだった。

 キリウはかつて一度だけ、それらの金属を開発している現場を見たことがあった。あの場所には老人の姿をした一匹の鬼とその部下たちがいた、とキリウは記憶している。地獄には下層から立ち昇る熱を放出するための構造体がシャフトとは別に存在し、老人はそこに隣接する閉鎖空間で、その無量の熱を利用した巨大な炉を駆っていた。彼は地獄のデザイナーのひとりで、当時は炉でいくつかの金属を混ぜ合わせる実験を行っていた。

 しかしそのひっそりとした閉鎖空間に、短距離テレポートの練習を無許可で行っていたキリウが、たまたま一度だけ落ち込んだことがあったのだ。試作品の山に頭から突っ込んだキリウに、彼はとても親切に接してくれた。そして仕事を見物させてくれたうえ、キリウが見たこともないしゃりしゃりする果物を振る舞ってくれた。

 だから今でもキリウは、溶けたドロドロの金属の輝きを見ると、みずみずしくて甘酸っぱい気分になる。

「そういえば、この先に溶鉄地獄があるんだった。煮えた金属を亡者に飲ませると、腹に穴が空いて、身体の中身と金属が混ざったものが出てくる。基地嶋、見たい?」

「きいてるだけでいやな気持ちになるけど、いったい何したら、そんな責苦を受けなきゃならないんだ……?」

「えー? 酒か薬の何か」

 相変わらず考え無しにそこまで言葉にしたところで、キリウは閉口した。

 溶かした金属をつかったものに限らず、地獄には亡者を苛むありとあらゆる責苦がある。現在は廃止されたものも含めれば、火炙り、直火、釜茹で、串刺し、八つ裂き、削ぎ切り、猫の爪切り、水洗い、強アルカリ、雑巾絞り、地雷原、銀杏など。これらはほんの一例で、キリウは串揚げの大鍋の油をぶちまけた現場にいたこともあるのだ。

 なのにキリウの頭の中からは、それらが何の罪に対応しているものなのかがとんと出てこなかった。基地嶋の感情の無い目で見つめられながら、キリウはしばらく考え込んでいた。

「俺、責苦の内容は覚えてるけど、そうなる罪ってあんまり覚えてないかも」

 すると基地嶋が、身体をくの字に折り曲げて俯いた。ガスマスクの下から、かれのくぐもった笑い声がした。

「くはは、はは。なんか、そんな気がしたんだ。キリウ、あんま他人に興味、ないからな」

 その言に、キリウはずっと昔にヤットコ地獄の先輩から全く同じことを言われていたことを思い出して、黄鬼なのに赤面した。

 ところでキリウの電波地獄は、情報を悪用した亡者が送られる刑場だ。伝統的な――多くの場合、少人数を対象とする自覚的な――嘘をついた者は舌吊り地獄や舌抜き地獄へ送られる。しかしそうでない嘘、あるいは嘘をつかなくとも情報を巧みに、あるいは無自覚に悪用した者は電波地獄へ送られる。いわく、「ひとりひとりが扱うことができる情報が爆発的に増えた時代に沿った刑場」が電波地獄なのだ。もっともその説明はキリウにはまったくピンとこず、鬼の噂話に喩えてもらって、ようやく少しだけ理解できたのだが。

 基地嶋のくすくす笑いが止まらないので、キリウも顔を真っ赤にしたまま、釣られて笑っていた。

「きちじま、笑いすぎだー」

「だってキリウ、地獄のことすげぇ知ってるのに、ときどき丸ごと抜けてんだもの」

 基地嶋の指摘はもっともだった。キリウは地獄そのものの成り立ちや、地獄の運用に関わる様々なことに広く興味を持っているわりには、このように明らかにすっぽ抜けているところがあったのだ。そしてキリウ自身はそのことに無自覚だった。

 亡者たちのバックグラウンド、各々が地獄に落とされた経緯は、鬼たちの残酷な好奇心を刺激するエンタメの一つだ。とはいえ実際のところ、地獄での生活が長くなるにつれて、それらから興味を失っていく鬼は多かった。ただキリウのそれは、すごく極端な部類なのだろう。

 その点については、キリウも心当たりがあった。その心当たりとは、キリウがかつて鬼ではなく亡者として地獄で責苦を受けていたという事実だった。

 キリウは鬼になる前は亡者だったのだ。それも子供の亡者だから、もともとは親不孝の罪で『賽の河原』に送られたのに、親不孝を認めず反抗的な態度ばかり取っていたせいで、ついに地獄に落とされてしまったのだ。だからだろう、亡者を苛む鬼の分際でどうしても罪というものに関心を持てないのは。自分の罪を納得できなかったキリウには、地獄で長い時間を過ごした今も、罪というものがなんなのかよく解らないままだった。

 あのとき釜茹で地獄の釜の中でキリウが恐怖を感じていたのは、湯の熱さで身体が爛れることでも、鬼たちから棒で叩かれることでもなかった。キリウにとって本当に恐ろしかったのは、湯気にまかれて脳みそまで焼けて意識が真っ白になったり、魂以外のすべてが壊れて痛みを感じなくなる瞬間が何度も訪れることのほうだった。まるで自分が死んでなお生者であるかのようで。まだ失うものがあることを無限に思い知らされるようで。

 これは宿舎の睡眠槽で眠る時に、いまだにキリウが夢で見る景色のひとつだ。夢の中のキリウは、とても不思議な存在だった。