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6.手続型ミルフィーユ

 地獄で鬼たちが今いるより上か下の階層に移動するには、エレベーターに乗る必要がある。地獄の階層間エレベーターはかつて物資・機材の運搬に使われていた名残で、とかく無骨で巨大な斜行エレベーターだった。その古めかしいプラットフォームを踏み、話し声が聴こえないほどの分厚い稼働音に包まれながら運ばれていく時、鬼たちは忘れて久しい恐怖の感情の片鱗を思い出すという。行く先の見えない長い斜め穴は底冷えのする暗闇で満ちており、しばらく乗っていればたちまち自分が進んでいるのか戻っているのか、時にこのまま乗っていれば目的地に着くのかさえも判らなくなるのだ。そしてシャフトを覗き込んだ経験がある者は、それとこれとが腹に抱く暗闇がとてもよく似ていることに気づくだろう。

「エレベーターでは灯りを見ないで目を閉じてたほうがいいかもな。余計なことを考えずに済む」

 のんびり歩きながらキリウがそう言うと、エレベーター酔いが残っている様子の基地嶋は力なく頷いた。このように、階層間エレベーターで乗り物酔い様の症状を起こす鬼は珍しくなかった。

 天まで届く山のように黒々とそびえ立って見えたエレベーターの外壁は、少し離れるだけでいとも簡単に、靄がかった暗い景色に溶け込んで視認できなくなった。すでに辺りはでこぼこした黒岩の山道と、その随所から噴き出す半液状の炎ばかりになっている。この近辺には刑場は無く、ただ脈々とこれらの地形が連なって広がっているだけのようだ。

 とりあえず無難なとこに出た、とキリウは他人事のように思っていた。この旅のエレベーター運が良いことを願うばかりだ。

 キリウは先程から、少し進行方向が変わるたびに首から下げた流体コンパスを確認していた。このコンパスは階層移動を伴う業務に就く鬼に貸与される道具で、小さな球状のフレームの内部に透明な液体が固定されただけの形状をしている。液体は広域のエーテルの流れに連動して一定の法則で変色し、結果として上層へ向かうエレベーターが位置する方角は常に赤Ⅳ色に、下層へ向かうエレベーターが位置する方角は常に紫Ⅱ色に変化するようになっていた。ただしシャフトの門が開いた直後はブレが出ることが多いため、時刻表を頼りに当該の時間帯にはこまめに確認するのが最善なのだと、異動の経験が多い鬼たちの間では伝えられていた。

 ではなぜこういった道具が必要かというと、階層間エレベーターは定期的に配置が変更されるからだ。エレベーターはシャフトのようなひとつながりの縦穴ではなく、階層ごとに必ず縦軸をずらして配置されるよう調整されていた。形状が斜行エレベーターであることと合わせて、それはちょうど「面倒くさいデパートのエスカレーター」のようだと以前に誰かが喩えていたことをキリウは覚えている。

 ではなぜ階層間エレベーターの位置がバラバラなうえ配置が変更までされるのかというと、その理由は「勝手に乗り込んで逃走するのを防ぐため」だと広く知られていた。

 何がだ? 亡者がか? あるいは鬼が? それが果たして誰の行いを指しているのかは、決まって明言されないのだった。

 不思議なものだ。明言されていないことがではなく、今日まで明言されていないことを含めて、性能がピンキリの鬼たちの間でそれが正確に言い伝えられていることそのものが。

 それとも噂話というのは、それ自体が持つ秘密めいたディテールがストーリーの一部に組み込まれた時、驚くほど高い精度と速度で自分自身を広める力を持ち始めるのかもしれなかった。この話は、かつて地獄の底に封印されていた『罪の魔物』が脱走した事件と勝手に紐づけられてリアリティを増し、現在では知らない者がいないほど有名な噂話の一つとなっていた。

「俺、ずっと思ってたけど、昔はエレベーターで機材を運んでたなんて嘘でしょ」

 渋い顔で唐突にキリウが言い出したせいで、基地嶋の頭が壊れた人形のように傾いた。基地嶋のガスマスクのレンズは、黒い山肌からどろどろと流れ出す炎の輝きを湛えて怪しく輝いていた。その向こう側から、いくらか困惑したかれの声がした。

「なんだ、なんだ、急に……」

 基地嶋の鳴き声に、キリウは心が和んだのを感じた。

「なんで嘘だと思うんだ?」

 そんなキリウの気持ちは露知らず、身振りのわりに感情の無い声で訊き返した基地嶋は今、ガスマスクをつけて赤いジャンプ傘を握り締めているせいで見た目がすごくごちゃごちゃしていた。この傘はキリウが電波地獄から借りっぱなしのものだが、今はキリウが機材類の入った頭陀袋を下げているので、代わりに基地嶋が持っているのだ。 

「だって焼き網とか磔刑台はまだ分かるけど、石臼とか鬼車とかを三層も四層も運ぶの、無理だろ」

 そうキリウが一人で勝手に結論づけたからか、基地嶋は適当に同調した。

「じゃあ、ムリなんだろ」

「うん」

 頷きながら、キリウは地獄巡りにこの友達を付き合わせることができた幸運をじわじわと噛み締めていた。

 キリウは、噂話にさほど興味を示さない基地嶋を好いていた。普段から噂好きの獄卒たちにずっと囲まれていると、キリウは時々、よくわからない気持ちになるのだった。

 例えばそれは、かつて新入りが入ってくるたびにイヤというほど身の上話を強要していたノコギリ地獄の先輩たち。どうせ睡眠槽に一晩入っていればほとんど忘れてしまうくせにだ。そしてそういった雰囲気に乗せられて、うっかり生前の弱い立場を地獄にまで持ち込む羽目になる不幸な奴らも。彼らはその失敗を悟ってようやく、地獄に来てからしばらくの間はいかなる理由でも転生ができないという契約書の文字に気付くらしい。

 あとは何より、退屈しのぎと興味本位で悪質な噂をわざと流そうとする、驚くほど多くの獄卒たちの存在だ。それはつまり、地獄がデタラメだらけになるのを何とも思わない者がそれだけいるのだということでもあった。

 けれど獄卒たちから噂話を取り上げたら、それこそ来世は何になりたいだとか効率の良いポイントの稼ぎ方だとかいう話題しか無くなってしまうのだ。その事実がまた、自分自身では言葉にできない感情となってキリウを苛んでいた。

 そういう意味では、キリウがせいぜい同い年の基地嶋を心の拠りどころにしている理由の最も大きなところは、そもそもかれがはぐれ鬼であるという点なのだろう。基地嶋は普通の鬼ではないので、来世はどんな『勝ち組』に転生したいだとか、誰が何に転生したがっているだとかにぜんぜん興味が無い。だから転生したくなくて仕方がないキリウは、基地嶋と一緒にいると安らげるのだった。

 子供ばかりの電波地獄もまた特有のグロテスクさがあり、キリウはそれらの感情から逃れることはできなかった。担当の管理鬼の言葉を借りるなら、子供というのは異物に対して悪い意味で素直なのだ。子供それ自体が残酷な性質から獄卒の適性を見出されていたこともあり、するとひとりだけ転生に興味が無く、獄卒になった時期も大きく離れているキリウは、彼らの格好の標的だった。

 それはなにも嫌がらせをされたり暴力を振るわれたりといったことでは決してなかったが、何かというと雑に絡まれたり名前を出されたりと巧妙につつき回されるのが、キリウには鬱陶しくてたまらなかった。矮小なキリウは、そんなものを受け止められるほどの器を持ち合わせてもいなかった。

 ぐちゃぐちゃと心をひっくり返したところで、あながち休暇というのも間違いではないのかもしれない、とキリウは他人事のように思った。とっくにブレの治まったコンパスを落ち着き無く弄り続けているキリウの手元を、不思議そうに基地嶋が横から覗き込んでいた。

 

  *  *  *

 

 融け落ちそうな山道をずっと下っていくと、少しなだらかな土地に出た。大気はそこそこ澄んでいたが、地面のあちこちに開いた裂け目から周期的に炎が噴き出すため、鬼の目でもなお明暗差に当てられて見通しが悪く感じられた。

 この辺りは階層間エレベーターの配置場所のひとつであるにも関わらず、地盤があまり丈夫ではないようだった。これらの裂け目は、エレベーターの再配置を繰り返しているうちに地形が歪んでできたものだ。特にふたりが向かおうとする先には、幅がキリウの背丈の数倍もある巨大な裂け目が真っ赤な口を広げて待っていた。

 その裂け目の周辺では獣の吠え声にも似た不思議な音が響いており、明らかに風の音とは異なることを感じてか、基地嶋がキリウのそばに寄ってきた。強い反響音のために出どころが判りにくかったが、どうやら音は裂け目の底から発されていた。キリウはそれを間違いなく生き物の声だと思った。しかし同時に、裂け目の底からは鼓動のように絶え間なく灼熱の炎が噴き出し続けてもいるのだが、これはいったいどういうことだろう。

 基地嶋を引き寄せて、キリウは独り言のように呟いた。

「どっかからか逃げ出そうとした亡者が落ちた?」

 キリウはその場に立ち止まって、じっと辺りの様子を探った。激しい炎の中ではレーダーの真似事は難しいが、多少注意深い鬼ならば魂の気配を察知することくらいはできた。オレンジ色の光の隙間を塗って慎重に感覚を巡らせたあと、キリウはぱっと基地嶋のほうを見て笑った。

「マジだ。俺が誰にも報告しなきゃ、永遠に焼かれてるかもな」

 裂け目のとても深いところに、ひとりの亡者が引っかかっていることをキリウは発見したのだ。文字通り全身を地獄の炎で焼かれ続けるそいつの悲鳴が地形に反響して、このような不思議な響きを作り出していたのだった。

 地獄において、傷ついた亡者は空間中のエーテルの作用によって再生し続けるが、そこに鬼が介在しなければ供養の手続きを踏むことはできず、刑期を消費することはできなかった。まれに地獄で行方不明になる魂がいるのは、こういったケースがあるからだ。もっとも、そうはさせないために地獄は亡者たちにタグを付けて管理しているわけで、よほどのことが無い限りキリウが面白がるような事態は続かず、すぐに誰かが回収しに来るのだが。

 逆巻く炎も厭わず谷底を覗き込もうと身を乗り出しているキリウとは対照的に、基地嶋はガスマスクの下の顔を僅かに強張らせていた。しかし基地嶋のその反応を予測していたキリウは、密かに心の中でもう一つのにこにこ顔を浮かべていた。このように、鬼のくせに残酷趣味に染まらないのも、キリウが基地嶋を好きな理由のひとつだったからだ。

 地獄のエーテルがそうするのか、欲深い魂を据えた鬼の身体がそうするのか、はたまた好むと好まざるとに関わらず亡者を苛め抜かねばならない環境がそうするのか――いずれにせよ鬼、特にキリウを含む獄卒はほとんど全員が血を好み、日々の業務でいちいち騒ぐことこそ無いが、苦痛にのたうつ亡者の姿に心を躍らせない者はいないとまで言われているのだ。亡者同士が傷つけ合う類の刑場が、オフに見物に来る獄卒たちで常に盛況であることもまたそれを裏付けていた。

 そのような中で、基地嶋のような者は逆にとてもピュアで面白くキリウには感じられるのだった。べつにかれが嫌がるところを見て喜んでいるわけではないので、無理やり見せるなどということはしない。ただただ単純に、地獄の日常風景をどうにも受け入れられないでいるらしい基地嶋のその様子を、キリウはひたすら好ましく思っているだけなのだ。

 流体コンパスの紫Ⅱ色の針が指していたのは、この巨大な裂け目の向こう側だった。キリウは周囲に他にラクな道が無いことを確認したあと、基地嶋に尋ねた。

「跳べる?」

「いや……」

 細い両腕をすっと上げた(お手上げのポーズ)基地嶋を見るなり、キリウは掻っ攫うように基地嶋の身体を脇に抱えて、えいやと前に跳んでいた。

 裂け目を跳び越えるまでのごく短い時間を、キリウは数十秒ほどにも感じていた。吹き上がる熱風に全身を煽られ、爪先から脳天まで突き抜けるあたたかい光の感触。地獄の炎と共にとぶ時、キリウはいつも目の中に星が入ったようになる。宇宙のどこかでひとり、身を削りながら炎を上げ続ける孤独な恒星、そんなもののイメージがキリウの頭の中にあるはずもないのに。

 きっと電波地獄の電波に後から貰ったのだろうと、キリウは赤い光と闇の中でときどき思っているのだ。

 余裕をもって着地したキリウは、死んだふりをした虫のように固まっている基地嶋を音もなく地面に降ろして、幾度目かの笑顔を浮かべた。そして剥き出しの骨よりも細い友達の手を引いて、再び歩き出した。

 そこからしばらく無言のまま進んだところで、また進行方向の先に崖のようなものが現れた。今度のそれは地面の裂け目ではなく、地形そのものが数十メートルも落ち窪んでおり、本当に崖になっているように見えた。ちょうど、自分たちが立っているところが急に高台になったかのようにキリウは錯覚した――。

『やば、刑場』

 このとき、崖の下を見たキリウは咄嗟にテレパシーで隣の基地嶋に声をかけた。

 基地嶋は少し驚いていたが、キリウと同じものを視認するなり、すぐに一歩飛び退いた。崖の下に広がっていたのは、釜茹で地獄の領域とその特有の喧騒だったのだ。

 釜茹で地獄は地獄全体でも有数の歴史を持つ伝統的な刑場で、亡者の収容数も配属されている鬼の数も、常に五指に入るほどの規模を誇っていた。この刑場ではいたるところに設置された炉によって過剰なほどの炎が焚かれ、その全ての上で錆だらけの大釜がぼこぼこと真っ赤な液体を沸き立たせ続けている。その真ん中に放り込まれた亡者たちがおぞましい悲鳴を上げてもがくのを、担当の獄卒たちがいつも棒で殴って押し込んでいるのだった。

 地獄耳をすませなくとも容易に聴こえるはずの、それら亡者たちの悲鳴にも獄卒たちの怒号にも気付かなかったのは、さすがに注意散漫だったかとキリウは頬を掻いた。実際、キリウは一瞬、自分が地図を読み誤ったのではないかと疑ったのだ。コンパスに従って真っ直ぐに進めば確かに進路上でこの刑場とぶつかることは分かっていたが、浮かれ過ぎていたのか想像していたよりもずっと早く着いてしまったらしい。

 唖然として釜茹で地獄を見下ろしている基地嶋の肩をつついて、キリウはかれの意識を呼び戻した。

『基地嶋。降りないで、行けるとこまで上を歩いてこう』

 かれはキリウの声に反応はしたが、しかしまだ自分の目で見ているものが信じられないといった面持ちで、ぼそりと呟いていた。

「なんであいつら、死なないんだ?」

「亡者たちがか? 罪と向き合うために、エーテルの作用で丈夫になってんのよ」

 キリウが簡潔に説明するとかれは無言で頷いたが、そんなことはかれも知っているであろうことはキリウも理解していた。どちらかといえばかれが吐き出したのは、理屈よりも感情なのだということもちゃんと解っていたけれど、不器用な質のキリウにはどう答えていいのかよくわからなかった。

 あれだけ乱暴に煮込まれて、全身の皮膚が真っ赤に爛れてずるずるに剥がれ落ちてもなお苦痛から逃れるために暴れ続ける亡者たちを見ていれば、そう言いたくなるのは何もおかしいことではないのだ。あの凄惨さは間違いなく釜茹で地獄が今日まで廃止されずに続いている理由の一つであり、設備や運用の単純さに並び、高く評価されている点だった。

「わかっちゃいるが、みてると、こっちが蒸し殺されそうだ」

 基地嶋もまたキリウがあまり器用ではないことを解っているので、自分自身で感情を処理したようだった。ガスマスクの下で軽く咳払いをした基地嶋を見て、キリウはふと、目下の釜茹で地獄からこの高台まで赤い蒸気と熱風が濛々と上ってきていることに気付いた。

 シャフトが開いたか、もしくは他の要因で風向きが変わったのかもしれなかった。触れるだけで皮膚が焼け爛れるほどの高熱はいくらか散っていたものの、そこに混ざり込んだ亡者の血肉が煮える生々しい悪臭を感じ取った瞬間、キリウは基地嶋が握り締めていた傘に手を伸ばしていた。

 真っ赤なジャンプ傘が弾けるように開き、ブンと短い電子音が響いたあと、ふたりはすっぽりと球状のバリアに包まれていた。

「基地嶋、これ使ってくれ。ここのボタンで開くの」

 言いながらもキリウは、このバリアの性能で蒸気や悪臭を遮断できるのかが気がかりだった。それにバリアといっても、展開する以前から周囲が汚染されていればそれを閉じ込めてしまうので意味が薄い。そうキリウは内心恐々としていたものの、どうやら効果があったと見え、少し待つとバリアの内側はいくらか安定した状態となっていた。

 基地嶋は周囲を漂う赤い蒸気とバリアの境界とを交互に眺めて、感心したように表情を緩めていた。

「すげえな、これ」

「ずっと開いてると持つとこ熱くなるから、適当に休みながら行こ」

 ふたりの少年は、足音を殺して釜茹で地獄の縁をひた走るのだった。