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5.シャフト

 その指示書には後から足されたと思しき段落があった。

『自分の目で見て、自分の頭でよく考えてください。どんな些細なことにも注意を払ってください。あなたの助けになると思います。』

 それは難題だ、とキリウは首をひねった。キリウは自分が特別に注意力散漫な方だとは思っていなかった。けれど鬼の目は視力が良すぎて疲れるし、キリウ個人は物事を深く考えるのもあまり得意ではなかったからだ。いや、本当のところはいくつかの領域に限っては考える能力自体を持たず、また他のいくつかの領域に限っては考えること自体を避けていたのかもしれない。

 キリウは、鬼の身にあって転生したがらない変わり者だ。最初からずっとそうであり、これからもずっとそのつもりだった。それはキリウが自分の意思で地獄に来たわけではないことに由来していたが、今では自分の意思で鬼を続けていることの表れでもあり、ただひとつの主張と言えるものでもあった。

 こんなに転生したくないのだから、きっと直近の生涯はろくなものではなかったに違いない。だから記憶にも無い地上に転生などして戻るより、地獄が働き手不足で困っているならまだ地獄に身を置いていたい。そう心の底から願っていた。

 

  *  *  *

 

 シャフトは地獄を上から下まで貫くただ一つの巨大な縦穴だ。シャフトの内部と地獄の各階層とは巨大な門で隔てられており、一日に数回きり時刻表の通りに開いては、奈落を思わせる闇の中から無数のコンテナが広場に運び込まれてくる。コンテナの最初の運び手となるのは虫のような翅を持つ小柄な使い鬼たちで、特に亡者の魂がぎゅう詰めにされた楕円形のコンテナを寄ってたかって運ぶ様は、有機的な形と相まって虫そのものだった。

 まあ虫があんな風にものを運ぶかどうかなんて知らないけど、とキリウは門のそばで技術鬼が数匹の使い鬼たちの部品を換えてやっているところを眺めながら思った。使い鬼たちは鬼と呼ばれてはいるがその実は霊界の技術で作られた工芸品の類で、一般の鬼たちと異なり、生きた魂は入っていない。こんなものが作れるなら鬼の代わりも作れないのかというのは鬼なら誰もが抱く疑問だったが、亡者を苛む者は魂がある者でなければならないと昔から決められていた。

 使い鬼たちは皆一様に虫の姿をしており、大きな複眼に透き通った翅、ぷくぷくした腹、細い六本脚を持っている。天の国では同じものが天使を名乗っているのだとキリウは噂で聞いたことがあった。

 ただでさえ噂話が多い地獄だが、シャフトに関する噂話は殊更に多く、特に外の世界が絡んでくるものは夢があり人気が高かった。例えばシャフトをずっと昇っていくと地上に出られるだとか、上端は天の国まで繋がっていて天使が落ちてきたことがあるだとか。

 しかしその二つはどちらも嘘だろうとキリウは斬って捨てていた。キリウのおぼろげな記憶を頼るならば、シャフトの上は死後に通ってきた冥土の荒野のどこかに通じているのだ。だから地上に直接出られるわけではないし、蜘蛛の糸を垂らして天の国から亡者を一本釣りといったイタズラもできないようになっている。少なくともキリウはそう考えていた。

 どちらにせよシャフトの内側には滅多なことでは入れないようになっているし、万が一入り込んでしまったが最後、光ひとつ無い真っ暗闇の中を地獄の底まで落ち続けるほか無いのだった。坩堝とも形容される、地獄に渦巻く激しいエネルギーを外部に流出させないために、シャフト内は地獄の重力が極めて強く働いている。鬼でも生身で飛び込めば魂ごと跡形も無く蒸発して、地獄を満たすエーテルの一部になってしまうだろう。

 事務処が地獄のど真ん中にあるというよりは、シャフトを中心に地獄の中枢となる機能が集められているのは自然なことだった。シャフトの周りには事務処の他にも図書館・養生院・トレーニングセンター・嗜好品の販売店といったいくつかの構造体が並んでおり、常に鬼の往来が多く、亡者の運び入れが一段落したこの時間帯でもそれは変わらなかった。

 亡者が現代よりずっと少なかった古い時代にはコンテナなど無く、亡者たちは身ひとつでシャフトを真っ逆さまに落ちてきていたそうだ。その頃、亡者たちが初めて門をくぐって目にする地獄の光景には特別感が必要で、この広場には神聖さを感じさせるオブジェや磨き上げられた拷問器具の数々が厳かに並べられていたという。官本で初めてその景色を見た時、キリウは一気に目が覚めたようになったことを今でも鮮明に覚えている。しかし亡者たちがコンテナ詰めされたまま刑場に直接運ばれるようになり、景観に気を遣わなくなってすっかり雑然としてしまった今のシャフト周辺も、それはそれで好きだとキリウは思っていた。

 さて、事務処の入口から出てきたキリウはしばらく落ち着きなく近辺を歩き回っていたが、やがて道の端に腰を下ろして、受け取ったばかりの資料に再び目を通し始めた。事務処に行ったら機密情報が入っているというスタンドアロン端末を渡されて、何か言う間もなく個人用端末とは反対側の腕に取り付けられたのだ。資料自体は過去数百年の亡者の統計情報だったが、そこに付けられた複数のアノテーションが示すのは次のような事実だった。――いま、L8に奇妙な亡者がいる。それはちょっとやそっと罪を重ねたくらいでは考えられないほど異常に長い『刑期』を持つ、ヒトではない何かである。

 そもそも地獄というのは、魂が背負った霊的な偏りを解消するために作られた霊界の一つだ。仏の教えを理解できるポテンシャルを持つ魂のみが対象となるのは霊界共通の特徴だが、主にマイナスの偏りを解消する役割を持つのが地獄で、反対にプラスの偏りを解消するのが天の国といった具合だった。そして地獄において亡者たちの負債は、基本的には亡者自身が鬼たちから責苦を受けることと、地上の遺族や仲間たちといった誰かしらから供養を受けることでのみ減らすことができる。

 それら亡者たちが地獄を出られるまでの期間、あるいは負債の量は俗に『刑期』と呼ばれた。鬼たちの中でも皮肉っぽい者は、自身の転生に必要な残ポイント量を稼げるまでの所要期間を『刑期』と呼ぶことがしばしばあったが、キリウはそれを、自分で望んで地獄に来たくせに図々しいのではないかと思い嫌っていた。

 ともかくキリウの任務は、はるばるL8まで赴いて実地でその亡者について定められた方法で調査し、当局に報告することだった。さらにどういうわけか現地に着くまでも定期的に報告を上げる必要があり、そこにはキリウが地獄で見たものと、キリウがそれらを見てどう感じたかも書いて含める必要があった。

 どーすんだよこれ、とキリウは軽くため息をついた。仕事のことではなく、小脇に抱えたままの赤い傘のことだった。事務処からはこのまま下へ直行するよう伝えられたが、その通りにしたらキリウは電波地獄の大切な傘を一本借りパクすることになってしまう。シャフト近辺や収容人数が多い刑場には雨よけの広域バリアが導入されているが、もちろん電波地獄はそうではなく、宿舎に傘を置いてもらえたのも最近のことなのにだ。

 誰か電波地獄に行く鬼はいないかと、そちら方面のバス待ちの獄卒の中に該当する者を探しに行こうとして、しかしキリウはふと気配を感じて足を止めた。

『キリウ、こっち。こっち』

 微かな声でキリウを呼ぶテレパシーがあった。キリウが反射的に辺りを探ると、どうやら道中のデポ(物資保管所)で降ろしたはずの基地嶋が、往来を避けるようにひっそりと構造体の裏側に立っているようだった。普段は他の鬼たちを避けて生きているかれが、こんなところに?

 キリウは鬼の中でも珍しくテレパシーを使うことができ、基地嶋にもやり方を教えていた。もっともそれが鬼の使える力の中では高等技術の部類であることに、キリウ自身は気付いていなかった。あくまで基地嶋と地獄を探検している最中、互いに呼び合う必要に駆られて身に付いた微弱なものだったので、それ以外の用途で使おうとしたことも無かったのだった。そのくせ今は返事をすることも忘れて、キリウが大急ぎでそこに駆け寄って覗き込んだら、基地嶋はびっくりして尻もちをついていた。

「!!」

 はぐれ鬼のかれを大声で呼ぶわけにもいかず無言でとことこ寄っていったキリウとは対照的に、基地嶋はかなり緊張した佇まいだった。かれのガスマスクのレンズには大粒の水滴が伝った跡があり、濡れたままのねずみ色の髪が普段にも増してくしゃくしゃになっていた。濡れねずみだ。キリウは十分に基地嶋の側まで近づいたあと、こそっと口を開いた。

「よくここまで来れたな。歩いてきたのか?」

「おまえ……明るいとこで見ると……すごいな」

「は?」

 ネジがすっぽ抜けたようなキリウの反応に、基地嶋が僅かに首を引っ込めた。

 キリウは少し遅れて、基地嶋がレンズ越しに見つめてきているのが自分の顔ではなく髪と目であることに気づいた。同時に、以前ポイントを使って極彩色に変えたままの自分の髪と虹彩のことを言われているのだとも理解した。

 そもそも地獄をはじめとする霊界の実体はエネルギーの塊そのものなので、そこにいる鬼も亡者も単なるエネルギー体にすぎない。実際のところ、互いがどう見えているかすら定かではなかった。よって鬼の容姿の話をすること自体がナンセンスなはずなのだが、一度でも生者として肉体を持った以上は魂がそれらのイメージに引っ張られることもまた事実で、ゆえに地獄において鬼の『外見』にはいくらかの意味が存在した。需要があると見ればポイントを使わせて少しでも長く地獄に留めておこうとする当局の姿勢もあり、現在では然るべきところに行けば、ルールの範囲内で見え方を変えてもらえるようになっているのだ。

 今のキリウは、地獄のもので例えようがない真っ青な頭髪と、鮮血のように真っ赤な瞳をしていた。特に黒い眼球の真ん中でぎらぎらと輝く赤い瞳は恐ろしげで、適当に決めたにしてはキリウもなかなか気に入っていたのだった。地獄はほぼ全域が薄暗く、ある程度の光量が確保されているのはシャフト近辺など限られた場所だけなので、そこでキリウと出会うのは基地嶋にも新鮮だったのだろう。キリウは尖った爪が当たるのも気にせずに指でまぶたを開き、ぎょろりと基地嶋を見つめた。

「変か?」

「いや、なんかわからんが、すげえ。三原色ってかんじだ」

「さん?」

「あか・あお・きいろが揃ってて、すげえ」

 基地嶋にそう形容されて、キリウは噴き出した。キリウは黄鬼なので肌がまっ黄色だし、その通りだと思ったからだ。何よりこの友達と自分とは恐らく同じものが見えているのだと分かり、キリウは嬉しい気持ちになった。

 ニヤニヤ笑いがおさまらないキリウは、不思議そうに眺めてくる基地嶋に向き直って、緊張感の欠片もなく尋ねた。

「基地嶋、どうした? シャフトに知り合いでも落ちてくる?」

「いや」

 基地嶋はこもった声で短く言って、首を横に振った。少しの間のあと、かれは鼻を鳴らして、どこかばつが悪そうに切り出してきた。

「気が変わった。さっきの話、まだいいか?」

 この時キリウは薄情にも数刻前に自分が持ち掛けた話を忘れかけていたが、すぐに思い出して勢いよく心を跳ね散らかした。付き合いの良いかれは、キリウの孤独な仕事についてきてくれると言うのだ。せっつくようにキリウは訊き返していた。

「来てくれんの?」

「ああ」

 キリウは、自分がよほど嬉しそうな顔をしたのが分かった。

「やった!」

「でもおれ、あんまりキツイとこは、ちょっとダメかも」

「大丈夫大丈夫、俺が一緒だから」

 まったく理由になっていないが、基地嶋が多少安心した様子を見せたのでキリウも安心していた。身を隠していることもほどほどにはしゃぎ始めたキリウを基地嶋は止めず、かれはただそっと、骨の浮いた両手でガスマスクの位置を直しただけだった。

 そういうわけで、友人たちの長いのか短いのかわからないツアーが始まるのだ。あるいは、迷子の獄卒と死んだ目のはぐれ鬼との不思議な冒険が。