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4.赤い雨、夏の火

 地獄の夏は朝も夜も無くクソ暑い。もともと夏も冬も無いが、ただでさえ地獄という空間は癖が強い。時間の流れも地上に比べて恐ろしく遅く、その上でさらに体感時間と実時間に差があるとも言われているが、細かいことは学の無いキリウには理解できなかった。それでも鬼として働くだけならば、地獄時計の通りに動いていれば間違い無いのだった。

 獄卒キリウが奇妙な調査指令を受けた翌朝のことだった。今のキリウは球状のバリアに身を包み、宿舎から借りてきた真っ赤なジャンプ傘を脇に抱えて、雨の中を猛然とダッシュしている最中だった。

 ただでさえ薄暗い地獄が、雨の日はもっと暗くなる。鬼なら誰もが見慣れた曇天渦巻く赤黒い空、亡者の血を吸い尽くした赤黒い大地、全てを拒む赤黒い岩山たち。それら全てがより一層、恐ろしさと息苦しさを増して向こう側に突っ立っているようにキリウには感じられた。

 そしてそんな悪天候に相応しいこの玩具みたいな傘は、持っているだけで周囲に簡易的なバリアを張れるガジェットだ。地獄の赤い雨はそこそこ高いエネルギーを持っていることが現在では知られており、多量に浴びると鬼の頑丈な身体にも無害ではないので、個人での短距離移動用にこういったものが作られた。しかし分厚い空気を躱してスピードを稼ごうとすると、このように傘としての意義を失った奇妙な光景になるのだった。

 昨日から降り続く赤い雨は空間そのものをじりじりと焼いていた。鉄砲水が起きたら面倒なことになるだろう。走り続けながらキリウは、雨の向こうに置いてきた電波地獄のことを考えていた。鬼の身体にも傷を付ける雨に打たれて脆弱な亡者が耐えられるはずもなく、雨のあとの電波地獄は、溶けたり吹き飛んだりして原形をとどめなくなった亡者がアンテナの周辺に飛散しているのが常だった。

 そういった被害に見舞われるのは電波地獄だけではない。磔にしたり身体の一部で吊り下げたりといった、とかく亡者を器具で固定している部類の刑場の多くは、雨のあとは原状復帰に余計な労力を割かなければならなかった。他にも針山地獄で針の上を揚々と渡っていた軽業師の亡者が、雨に降られて溶けて針の根元に溜まってしまって回収が大変だったという噂話も、一時期とても獄卒たちの間で流行っていた。

 きっと明日も電波地獄は大変だな、とキリウは他人事のように思っていた。この世のほとんどのことを他人事だと思ってしまう質のキリウだが、今日のこれは本当に他人事だった。なぜなら今日は、仕事のために当局からの呼び出しに応じて事務処に向かっているキリウだからだ。そして明日からも、しばらくは調査業務で遠出のため電波地獄には戻れないことが決まっているキリウでもあったからだ。

 自明な話、新しい刑場ほど地獄の中心地からは離れている。事務処は地獄のど真ん中に位置しているため、電波地獄のような辺境から出向くのはやや骨だった。地獄には鬼用の交通手段として地獄バスが運行しているが、これは欠点が多かった。重要な拠点間しか繋いでいないし、景観を守るため火吹き龍などの大型生物を使っているので乗り心地が良くないし、あちこちの獄卒が相乗りになるせいでトラブルも多かった。何よりキリウ程度に地理を把握していて身体を使うのが得意な鬼ならば、自分で走った方が速いのだった。

 だからキリウは走っていた。雨さえ降っていなければ、ひび割れた地面のいたるところから噴き出している炎の上を飛び移っていくのをキリウは得意としていたが、今はただ地に足をつけて走っていた。地獄の炎は人間の信仰が作り出した永遠の炎なので雨で消える心配こそ無かったが、実際のところ火乗りをするとき鬼は炎に溶け込んだ状態になるため、そこで万が一激しい雨を浴びれば、雨のエネルギーに吹き飛ばされてしまう危険があるとキリウは判断していた。

 つくづくまだるっこしいな、などとどこまでも他人事のように思っていたキリウの目に、ふいに飛び込んできたものがあった。地獄の炎を見つめても痛まない鬼の目の鋭い視力が、左手側の遠くにある廃止された刑場の跡地の端で、何者かが動いたのを捉えたのだ。

 ――鬼手不足から運用に頭数が必要な刑場や回転率が悪い刑場は徐々に廃止される傾向にあり、例えば鬼が数匹がかりで一人の亡者の四肢を引いて八つ裂きにするだけの責苦すら、昨今では現実的ではなくなっている。同様に、廃止された刑場を片付ける鬼の手すら足りていなかった。結果としてそれら刑場の大半では、分厚い塀の向こう側で、投棄されたも同然の機材や大道具がそのまま灰をかぶって佇んでいる有様だった。

 可能な限りスピードを落とさずに急旋回したキリウは、一足飛びにそこに向かって走った。更に速度を増し、開かれた平地を猪突猛進に突き進み、キリウはあっという間に、その刑場を取り囲んでいる崩れかけの外壁に突っ込んだ。轟音とともに舞い上がった灰を、全身から放った炎で一瞬のうちに吹き飛ばしたあと、キリウは間の抜けた声で『かれ』の名を呼んだ。

「基地嶋ぁー」

 キリウは地獄耳を澄まして、地面の下で燃え上がる炎の吠え声と、崩落した外壁の欠片が転がっていく音以外の気配を探った。崩れずに残った外壁の反対側を覗き込んだとき、キリウが探していたそれはすぐに見つかった。

「基地嶋?」

 庇の下にいたのは、地面にうずくまって頭を抱えている鬼の少年だった。声を聴いてゆっくりと上を向いた彼の顔は黒いガスマスクで覆われており、暗い色のレンズの奥から、恨みがましげな目がキリウに向けられていた。

「てめぇ、おれが雨宿りしてるの、知っててこれかよ……」

「ここ入れって。ちょっと喋ろうぜ」

 キリウが傘を開いて掲げると、基地嶋はやや戸惑い気味に見上げたあと、そっと一歩寄ってバリアの内側に入ってきた。キリウは、開いても開かなくても効果が変わるわけではない傘を自分が伊達で開いていたことに気付いて失笑したが、そんな内心を知る由もない基地嶋がむっとしたのを見て、否定するように頭を振った。

 かれ、キリウの無礼を赦す基地嶋(きちじま)はキリウの友達である。電波地獄に配属された当初、落ち込んでいたキリウが『外』で作った貴重な友達がかれだった。かれは常に生気の無い死んだ目をしており、身体は餓鬼のように肉が少なく歪だったが、それ以上に特徴的なのは、かれこそがはぐれ鬼のひとりだということだった。キリウは昨日聞いたはぐれ鬼の噂話について、早速かれに尋ねた。

「なー。基地嶋、最近L6にいた? 電波地獄のやつらが噂してた」

 基地嶋はレンズの奥の目をぱちくりさせて、すぐに否定した。

「おれじゃないな。だいたい、そんな遠くに行けるわけないだろ」

「そっか」

 キリウは安心して息を吐いた。

 はぐれ鬼というのは、地獄の労働者管理データベースに情報が存在しない非正規の鬼を指す言葉だった。若い獄卒たちからは幽霊などのオカルトの類で扱われることが多いはぐれ鬼だが、実際には様々な要因で実在しており、少なくない数がひっそりと地獄に身を置いているらしいことは、ある程度歴の長い鬼たちの間では公然の事実だった。もちろん当局も彼らの存在を把握していないはずはなかったが、しかし実害が無いためか対応に要員を割けないためかほとんど放置されていた。それに倣って面倒を嫌う現場の鬼たちも、まれに彼らと接触することがあってもまず見て見ぬふりをするのだった。

 全員が遅かれ早かれ転生で去っていくという性質に加え、長年の鬼手不足からくる地獄の現場の事なかれ主義は根深かった。なのでキリウも、このように基地嶋が外をうろついていてどこかの獄卒に目撃されること自体はそう心配していなかった。どちらかと言えば、獄卒の中で浮き気味のキリウにとって職場の外の癒しである基地嶋が、万が一にも電波地獄の猿どもの暇つぶしの種になるのが不愉快だということの方が問題だった。

 キリウは多くの鬼がそうであるのと同様に地獄に来る以前の記憶を失っていたが、おそらく生前まで含めても数少ない友達のひとりがこの基地嶋なのだろうとなんとなく思っていた。一方で先程からバリアの端で直立不動になっていた基地嶋が、ため息をついてぼやいた。

「しょうじき助かった。うっかり降られちまった」

「不用心だな、あのへんから見えてたぜ基地嶋。やっぱりそのマスク、見通し悪いから取った方がいいって」

「まぶしいんだよ、炎が」

 そう言った基地嶋はマスクを少し上げて、片手に持っていた瓶から水を一口飲んだ。これは自販機で買えるものではなく、地上の遺族や知人たちによって亡者たちに手向けられた供養の水だった。多くの鬼たちは供物に飽き飽きしており手をつけることは少なかったが、基地嶋は勝手に取ってよく飲んでいた。かれは口元を拭いながらキリウに尋ねてきた。

「朝っぱらから外にいるの、めずらしいな。オフか? あそべるんか?」

 キリウはシフトの合間を基地嶋と共にすることがよくあり、顔を合わせると自然とこういう流れになる。このふたりはしょっちゅう連れ立って、探検・ゴミ拾い・セキュリティ調査等に興じていた。キリウは基地嶋が瓶に封をしているところを凝視しながら、しかし口早に答えた。

「ごめん。俺、これから一番下まで行って、何か調べてこなきゃいけないの」

 左手首に巻かれた個人用端末を見やり、キリウは宿舎を出る前にチェックした指示書の内容をちらと思い返した。

 この金属質の輪の形をした個人用端末は全ての獄卒が着用しているもので、実際には腕と一体化しており、上長や当局からの連絡事項を逃さず受け取れるようになっている。しかしだからこそ、今日わざわざ事務処に出向かなければならないのがよくわからないキリウでもあった。おかげでキリウは今朝からずっと首を傾げ気味だった。

「こんな上の方からか……? なんでだ」

 キリウと同じ角度に首を傾げて基地嶋が訊ねてきたが、それはもっともな疑問だとキリウは思った。

 八大地獄という概念は有名である。先程からふたりが上だ下だと言っているのは、地獄が計八層の階層(Layer)構造をしているからだ。罪が重い亡者ほど下の層へ送られ、ひとつ上の層に比べて十倍惨たらしい責苦を受けるというのは、地獄の創設当初から変わらない伝統的なシステムだった。

 サブ階層が存在するとかしないとか、一時期は何層か増えていたとかいないとか等の八大地獄にまつわる噂話は無数にあったが、そんなことはどうでもいい。目下のところ重要なのは、おそらくキリウはここ最上層から自力で最下層まで歩いていかなければならないということ。そして下位の階層ほど地獄の重力の影響で過酷な環境になるということだった。

 地獄には木っ端の鬼が階層間を簡単に移動できる手段が無かった。亡者は上から下に落とされたきりだし、獄卒も人事異動以外では階層間の移動などしない。件の噂話に出てきたL6というのも上から六階層目という意味だが、そもそも基地嶋が短期間のうちにそことこことを行き来すること自体が有り得ないのだった。だからこうしてキリウが最下層まで派遣されることも、少なくともまったく合理的ではないように思われた。

 キリウは基地嶋に同調しようとして、しかしふいに、管理鬼がこの仕事の話をしに来た時の言いぐさを思い出した。まるでキリウに断られたら困るかのような態度に加え、異論は無いが「扱いにくくてしょうがねー」などという暴言。自然と導き出された結論が、キリウの口からぽろりと出た。

「いいように追い出された、気がする」

「キリウがか……?」

 不思議そうに訊き返す基地嶋をいいやつだと感じて、キリウは笑った。

「変な話だよな。一緒に来る?」

 この時、キリウはなぜ自分がそんなことを言ったのか解らなかったし、基地嶋はもっと解らなさそうだった。かれは明らかに困惑しながら独り言のように呟いた。

「おこられるだろ……キリウが」

 尻すぼみの小声で付け加えた基地嶋を見据えるキリウの目は、黒くてもそうとわかるほど血走っていた。キリウはやけに興奮ぎみになって語った。

「休暇だと思って行ってこいって言われたし。だってL8だよ、羽が十二枚ある鬼がいるらしいよ。見に行こうぜ基地嶋」

「変だぞ、おまえ」

 外でにわかに雨の勢いが増す中、狭いバリアの内側でにじり寄られた基地嶋は亀のように首をすくめてしまっていた。かれは骨の浮いた手でキリウを制して、つとめて冷静に言った。

「落ち着けよ。ちゃちゃっといって、はやく戻ってこいよ……」

「それもそーだな」

 端から無茶を言っている自覚があったキリウはすぐに引いて、基地嶋ほど細くはないがいつまでも子供のままの手を自分の顔に当てた。すっと憑き物が落ちてトーンダウンしたキリウの様子に基地嶋もほっとしたらしく、ガスマスクの向こうで気の抜けた笑みを浮かべていた。

 雨は当面は止みそうもなかった。バリアで弾ききれない雨粒が足元に溜まってきていることに気づいたキリウは、そろそろこの場を離れようと思い基地嶋に声をかけた。

「じゃあ、俺、もう行くから。でも、どっか雨が当たらないとこまで送ってくから」

「ありがと」

 礼を言われるより早く、キリウは基地嶋の身体を板切れのように抱えて再び駆け出していた。

 この眠れる刑場の近辺は完全に開かれて身を隠す影もなく、亡者が逃げ出そうという気を起こさぬよう、かつて居たデザイナーの鬼が意図的に整地させたのだという噂がある。あるいはそれでもたまらず逃げ出した亡者を残酷に追跡できる楽しみもあり、獄卒たちからは好評だったそうだ。