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3.ぼくらはみんな死んでいる

『地獄で働いてポイントを貯めれば来世は好きなものに転生できるよ』

 その言葉でほいほいスカウトされて鬼になった者は多い。多いも何も、それ以外に死者たちが地獄くんだりまで出向いて働く動機など一つも無いのだ。今日も今日とて冥土には、地獄行きを免れて安堵している魂の行列に向かってパンフレットを差し出す鬼たちがいるのだろう。

 そんな悠長な方法でしか労働力を集めてこなかった結果が近年の現世の人口増加に伴う深刻な鬼手不足であり、結局それは、前任の閻魔が更迭されてからもあまり変わっていないようキリウは感じていた。特に子供だけの電波地獄は、一時はやたらと採用した子供たちが使えないと判るやすぐに通常通りの採用に戻されてしまったので、結果的に新入りがほとんどやってこない状況が続いていた。

 おそらく、現在の体制で立ち行かなくなるまではこのままなのだろう。辛うじて頭が回る一部の子供たちはそれを察して続々と『出所』していくので、残っているのは更にボンクラと問題児ばかりになっていく始末。そうして出所していった子供たちの中には転生の条件を妥協した者も多かったが、もともと親不孝の罪を清算するために『賽の河原』で苦心してきたことも合わせると、さっさと現世に戻った方がマシだと彼らが判断するのも何ら不思議なことではなかった。

 そんなことはどうでもいい。なぜなら、このキリウという鬼には転生したいものなど無いのだから。

 さて、獄卒たちの詰所は地獄の地形に隠れるように刑場のすみっこに作られている。普段はシフト前後の子供たちで騒がしいこの待合室は、今はとてもがらんとしていた。雨の間は仕事ができないので、ほとんどの者は早々にポータルから宿舎に戻っていた。残っているのは、長机の端で針金で巻いた亡者カマキリを火炙りにしているキリウと、あとは壁際で駄弁っている数名のみだった。

 あの壁際のグループの真ん中で床に座らされているのは電波地獄の貴重な新入りだったが、彼は集会での自己紹介の際にヘラヘラした態度で「美少女に生まれ変わりたい」と安易に望みを公言した結果、あのように質の悪い獄卒たちから絡まれ続ける羽目になってしまっていた。そういうのは見ていてなんとなく不愉快なので、キリウは何度か止めたことがあるのだが、そうしたら今度はキリウがそいつに懐かれてしまいかけて、鬱陶しいのでもう関わらないことにしていた。

 不愉快だけれど宿舎に戻る気分でもないので我慢するしかない、とキリウは指先に灯した炎を見つめながらぼんやりと雨の音を聴いている。はめ殺しの窓の外は大雨だった。この窓は向こう側からこちら側が見えないように加工されているので、このように堂々と火遊びをしていても亡者から無闇に目撃される恐れは無く、刑場の景観を損なわないようになっていた。そうまでして地獄の建造物に窓をつける必要性が以前のキリウには解らなかったが、しかし雨が降るようになって以来は幾分か有用なものだと思えるようになっていた。

 これだけ降っていたら、外の亡者たちは雨に打たれて全滅だろう。

 いつからか、地獄にはときどき赤い雨が降るようになっていた。原因は誰にも分からないらしいが、ともかくそうなってそこそこ経つにも関わらず、いまだに電波地獄という刑場は雨の日は仕事ができない作りのままだった。

「552171番」

 急に識別番号の下六桁で呼ばれ、キリウの手が固まった拍子に、亡者カマキリの鎌の片方が焼け落ちて机に転がった。馴染みのある乾いた声にキリウがそっと顔を上げて見ると、いつの間にかそばにひとりの管理鬼が立っていた。

 管理鬼は鬼たちを管理する鬼だ。獄卒どもに適切に作業を割り振ったり、スケジュールや進捗の取りまとめをすることが主な仕事で、獄卒の中から希望者が審査を経て成るのだった。仕事が面倒な分、管理鬼は木っ端の獄卒に比べてポイントを効率よく稼げると言われているが、大勢の獄卒たちとよろしくやることの難しさは誰もが察するところではあったので、一部の考え無しに妬まれることはあっても実際に席の取り合いが起きることはまず無かった。

 それぞれが複数の刑場を受け持つ彼らは、電波地獄の担当だろうともちろん子供ではなかった。そしてこの、獄卒を番号で呼びたがる長身の管理鬼は――暗い目でキリウの指先の炎を捉えるなり、そこの自販機で買ったばかりの地獄タバコをこれ見よがしに一本取り出して翳してきた。鬼というのは特有の黒い目をしているのでどんなに明るい性格の者でも目元は必ず暗い印象になるが、この管理鬼の目の暗さは常々その比ではなかった。キリウは何もしないで眺めていようかと意地悪を考えたものの、考えただけにして、座ったまま彼のタバコの先端を指で一閃してやった。

 その場所で軽い爆発が起こっても管理鬼はまばたきひとつしなかった。地獄タバコのやたらも多いフレーバーのうち、最も甘ったるい匂いが緩慢に広がりだす。それから彼はのんびり煙を吸い込んで、ようやく切り出した。

「お前、アンケート提出してねーぞ。無いなら、無いって書いて提出しろ」

 この時下を向いたキリウは、自分の手が亡者カマキリの沸騰した体液でべっとりと汚れていたことを初めて意識した。

 アンケートとは、数年前から全ての鬼に義務付けられている定期アンケートのことだった。鬼たちはそこに自身の転生条件の希望とその付随情報を書いて提出する必要があった。用途は主に二つあり、ひとつは銘々の残りの所要ポイントを把握して効率的に仕事を割り振れるようにするため。もうひとつは、時間の経過につれ地上にいた頃の記憶が揮発してしまう鬼たちの性質を考慮して、もともとどのように転生したがっていたのかを記録しておくためだ。

 これは条件指定での転生という唯一無二の報酬にあぐらをかいている地獄にしては珍しく、純粋に鬼たちのためになる制度と言えた。こういうのは前任の閻魔の頃には考えられなかったことで、今の閻魔が多くの鬼からそこそこの支持を集めている理由でもあった。(そこそこといっても、誰もが一時的に身を置いているだけにすぎない投げっぱなしの世界である地獄で、明確な支持を得ていること自体が十分すごいことだ。)

 なので何も悪いことは無いのだが、そういった期限つきの作業が不得手なうえ、転生自体を希望していないキリウはしょっちゅう提出するのを忘れてしまっていた。そのたびにこの管理鬼がわざわざ対面で催促しに来るので、今日もそれかとキリウは若干の申し訳なさを感じていた。

 しかしこの日は何かが違っていたのだ。管理鬼はキリウの前に、これまたそこの自販機で買える瓶入りの水を置いた。あの自販機は鬼用の嗜好品をポイント払いで買える自販機だ。労働の代行もポイントの譲渡も一切不可能なシステムとなっている地獄において、それは監視はあれど他の鬼に何かを与えることができる唯一の手段でもあった。確認するようにキリウが再び管理鬼の顔を見上げると、彼は短く「やる」と言って、そしてしれっと続けた。

「それと、スポットで調査要員が必要らしいから。お前が行ってこい」

「はぁ?」

 不躾な返事をしたキリウの額を、管理鬼が指で強く弾いた。キリウが丸椅子もろともひっくり返りかける不穏な音が響いたあと、壁際でいつの間にか黙りこくっていた鬼たちは互いに目配せして、足音を立てないように部屋から出て行った。

 この管理鬼にしてはずいぶん有情な一発だ、とキリウは痛くもない額を押さえて他人事のように思っていた。キリウとこの管理鬼とは付き合いがそこそこ長いのだ。しかし鬼というものが常にいくらか自制心を欠いていることを差し引いても、この管理鬼はとりわけ獄卒たちを威圧することで統制している質だった。

 かつて他の刑場にいたキリウの先輩も、当時新米だったこの管理鬼から「てめえが使えない無能だからだグズ」などと罵られ続けて逃げるように転生していったものだった。もっともその先輩には重篤な先延ばし癖があり、いつまでも転生先を決めあぐねているうちに当局からあれこれ理由をつけてポイントの付与が停止され、その申し立てをよりによってこの管理鬼にしたのが間違いだったとも言えるのだが。

 そう、考えてみれば現在の状況としてはキリウもその先輩と大差無いはずなので、そろそろ何か悪いことがあるのかもしれない。キリウは無言で再びカマキリを焼き始め、降って湧いた新しい厄介ごとにようやく思考を巡らせた。スポットの調査要員といったが、獄卒にとってスポットの仕事というのは通常の仕事と比べて実入りが良いため、短期間でポイントを稼ぎたい者が積極的に手を挙げるものだった。しかしそもそも転生自体を望んでいないキリウには報酬の大小など関係無く、他の獄卒たちが入れる枠をわざわざ奪う意味も無かったので、めっきり縁が無いのだった。キリウは当然の疑問を口にした。

「なんで俺ですか?」

「貴様に拒否権があると思うなよ。鬼が足りないのは知ってるだろ」

 ダメ押しされたキリウの手元で炎が勢いを増した。焼け残っていたカマキリの身体がついに消し飛び、針金がどろりと机に融け落ちた。このときキリウはいったいどういう顔をしていたのか、管理鬼は小さくため息をついて続けた。

「かなりの遠出らしい。口答えせずに、休暇のつもりで行ってこいよ。ここにいるよりマシだろうが」

 やはりおかしい、とキリウは直感した。

 鬼手不足だからと何でも丸め込まれるのは近年の地獄の常だったが、それにしても普段から威圧的なこの管理鬼の今日の態度は、キリウにいくらかの違和感を抱かせた。鬼というのは代わりが効く仕事の代名詞で、特に獄卒たちの仕事はそれこそ機械部品の如く代替可能に設計されているはずなのに、今日はどこか宥めすかされてでもいるようキリウには感じられたのだ。

 だいたい、獄卒の休暇ほどよくわからない制度も無いのだ。キリウが不信から黙り込んだのを、管理鬼はわざと肯定として受け取ったらしかった。

「指示書は転送してあるから読んでおけよ。明日の朝イチで事務処に顔を出すのを忘れないように」

 じゃ……。

 それだけ言って立ち去る素振りをしたところで、しかし管理鬼は何か言いたげにキリウをじっと見た。なんですかとキリウが尋ねると、管理鬼は僅かに身をかがめて、キリウの耳の上で底冷えのする恐ろしい声で言った。

「いつまでもフラフラしてるなよ。貴様みたいなのは扱いにくくてしょうがねーんだよ」

 固まったキリウを見て、管理鬼は鼻で笑うと、今度こそ踵を返して去っていった。

 一応は地獄に骨を埋めるつもりでいるキリウにとって、管理鬼の言葉は少々ショックだった。しかし確かに昔からキリウはよく他の獄卒から絡まれるうえ、言いがかりをつけられてケンカになることもしばしばだった。子供の姿なのに歴が長くて――それこそあの管理鬼よりも歴自体はずっと長いせいで、なんとなく接しにくい、と他の獄卒にぼやかれたりもした。そういうところを言われているのだろうか、とキリウは薄暗い気持ちになった。

 鬼は九割が頭痛持ちだと言われており、キリウもまたそうだった。地獄の重力がそうさせるのだと噂されている。うっすらとした憂鬱と鈍痛に苛まれながら、キリウは置いて行かれた瓶入りの水を手に取り、指でキャップを壊して開封した。ここで買えるものの中では味のついていない水が一番好きだという、自身の好みにキリウが気付いたのはごく近年のことだった。