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1.ここにいるぼくたちへ

 蒸し殺すような夏の夕暮れのことだった。

 その少年はアイ区の郊外の駐車場の端にしゃがみ込んで、洗剤入りの水で満たしたペットボトルの口を、ブロック塀と地面の間にあいたアリの巣の入口めがけて傾けていた。ぽしゃぽしゃ流れ落ちる水が跳ね飛ばした泥が鮮やかなスニーカーに何度目かの暗い模様を塗り重ねていくのを、彼は視界の外で他人事のように感じていた。

 うずくまってそうしている間、肩からかけたカバンが砂だらけの地面に擦れるのも構わず、彼は地獄で見知らぬ亡者たちが魂を拷問される光景を想像していた。例えば鉄の箱に閉じ込められ、六方から緑色の炎で炙られ、骨まで焦がされながらのたうち回ることを。異形の鬼たちに抗いようのない力で脚を一本ずつ食い千切られ、腹を押し潰されて中身が外に飛び出すさまを。尖った指で臍を抉られ、臓物を探られたあと、ぎりぎりと引っ張り出される熱さと冷たさを。

 それは物心ついた頃からずっと、彼が毛布代わりにしてきたイメージだった。

 イメージの中の亡者たちの表情は一様にある種の諦観を帯びていた。彼らは最初はその身に降りかかる理不尽なまでの責苦に驚き、憤り、解放を願ってもがいていた。けれどいつか逃げ出しようのない恐怖と苦痛に絶望し、因果を呪うほど全身を切り刻まれることを理解し、やがて身に覚えもない罪までもを心の底から悔やみだした。亡者たちに許されたのは叫ぶことと、苦しむことと、後悔すること。それだけだった。

 誰も来ないなら日が落ちて暗くなるまで、あるいは家から持ち出してきた食器洗い洗剤がカラになるまで、彼はペットボトルを片手にずっとこの行為を繰り返していようと思っていた。実際、彼はここと公園の蛇口とを往復して、すでにいくつものアリの巣を手にかけていた。

 洗剤を入れるのは、そうすれば虫の身体の気門から水が入り込んで溺れ死ぬのだと知っていたからだ。それを知っているのは、殺そうと思って調べたからだ。どれだけ洗剤を混ぜればアリが死ぬのかも、自分で何度か試して彼は今ここにいた。果たしてそれはその通りで、薄青色の泡立つ水をかぶったアリたちは次々と死んでいった。苦しむ暇も無く、彼らは電池が切れたように一匹残らず動かなくなっていった。

 何も言わなければ、勝手にそこに意味を見出す人もいるのかもしれなかった。彼がアリを駆除するに至った理由を勝手に想像してくれたのかもしれなかった。たとえ標的がアリではなくカエルになったって、ネズミになったって、同じことだった。そしてその見方がそもそも間違っているのだと、彼は説明もしないのだった。

 彼の魂は決して、かつて取るに足りない畜生だった頃の弱さを忘れたわけではなかったのに、同時に彼は、魂に刻まれた恐怖から誰かを踏みにじるのを思いとどまったことも一度もなかった。彼自身も気付いていないように、彼が生まれつきの悪鬼であることに気付くものなどいないはずだったのだ。

 ただひとりを除いては。

 ――じゃり。と彼の背後で砂を踏みしめる音とともに、声が降ってきた。

「おい」

 気まぐれというよりは幾分か確信のこもった響きに背中を突かれて、少年の攣りかけの手からペットボトルが転げ落ちた。すでに中身をほとんど空けていたペットボトルはその残りを口から溢すことこそなかったが、アンバランスな重みに叩かれた水たまりが、今日で一番の染みを自身のスニーカーに飛ばした。

 その声は少年のものとそっくりだった。なぜならそれは、彼の同い年の兄のものだったからだ。声だけでなく、顔も身体も瓜二つの存在だった。違うのは魂だけ。

 そんな人がなぜここにいるのだろう、と少年は思った。今日、ここに来ることを彼は誰にも言っていない。急にうるさくなった鼓動とこめかみを流れ落ちた汗を否応なく感じながら、彼が振り向こうとしたとき、同じ顔の兄が肩の上から弟の手元を覗き込んで呟いた。

「クロオオアリだ」

 捌けない水たまりの上で泡にまぎれて動かなくなっているアリを、兄は虫のように感情の無い目で見下ろしていた。それ以外に兄は何も言わなかったが、気が付くと弟の顔はひどく強張っていた。この世でただひとつ、自分の行いを咎められた気がしたからだ。この少年がそのように感じるものは他に無く、そしていつもそうだった。

 いつもそうだった。

 それから兄は僅かに中身の残ったペットボトルを拾い上げて、反対側の手のひらを弟の前に差し出した。促されるように弟は、のろのろとその手に食器洗い洗剤のボトルを置いたあと、耐えられなくなって俯いた。

 視線の先で、兄の爪先がふらりと明後日の方向を向いた。それから、放るように投げかけられた空っぽの声。

「洗剤、勝手に持ってったらダメだろ」

 探りたくて瞳を覗こうとするとき、その人はいつもそれに気づかないふりをして目を逸らす。