作成日:

9.ひとごろしの巻

 区が紹介している複数の事業所で、作業手伝いという名の労働をしている若者のほとんどは、ジュンや兄のような生産所産の子供たちだった。人口政策の一環で生産された子供たちは公的扶助により最低限の生活を保障されていたが、実際のところ決められた物品としか交換できないチケット制は不評で、ほとんどの子供たちは謝礼の現金欲しさにすすんで事業所に赴くのだった。

 そこまで計算ずくで嵌められているのではないか、という世間の言説は概ね正しかったが、そんなことはどうでもいい。当事者にとっては、生産所産の人間に理解があってごちゃごちゃ言わずに働かせてくれる場所があるというだけで十二分にありがたいのだった。一時期はネットで聞きかじった都合の良い情報を鵜呑みにして外部の仕事に手を出す者が多かったが、よほど人を食ったようなごく一部の有能な者以外は搾取されるだけだということも近頃は周知され始めていた。おかげで子供たちは割り切った気持ちでラベル貼り・サビ取り・ネットパトロール・プログラミングといった軽作業と向き合えるのだ。

 ジュンもまたそういった子供たちの一人だった。特にジュンと兄が育った施設は学習プログラム実験に参加しており、施設を早々に出てからも追加の学習を行う必要が無いほどの効果を得ていたが、かと言って真昼間から子供が働ける場所がそうそうあるわけもなく、やはり事業所通いに落ち着いていた。

 特に近頃のジュンはシフトをガンガンに入れてハードワークに精を出しており、晩夏とはいえ辺りがすっかり暗くなってから帰ることもしばしばだった。以前のジュンは新しいコンピュータやミーちゃんの服を買うためだけに働いていたところがあったが、ここのところは違っていた。それは決して数か月の停滞を取り戻したいみたいな闇雲な話ではなく、もう少し具体的な目的を持ってのことだった。

 何であるかというと――いや、キリウ君に相談するのはもう少しまとまった金ができてからにしよう、とジュンは思っている。いつになるか知らないけれど。

 さて、今日もまさにそのような暗い帰路に就いていたジュンだった。最寄りの駅から自宅までは徒歩九分、ジュンはいつも住宅地の端に位置する大きな薄汚い公園を抜けて帰っている。古びた街灯の光に照らされていても、この時期の夜の公園は夏の間に茂った木々に覆われて鬱蒼としており、大きな側溝のグレーチングの下から立ち昇ってくるかのような湿気と相まって、人をあまり寄せ付けないものとなっていた。

 そしてジュンがいつも通りに、そこを横切って道に出てきた時のことだった。ふいにすぐそばに路駐していたSUVのリアドアが開き、中からぴょんと出てきたのはキリウ君だった。ジュンは駆け寄ってきた彼をごく自然に振り返って、「ああ」と呟いた。ほぼ同時に、ジュンは彼が振りかぶっていたバットで側頭部を吹っ飛ばされたが、そのことに気づくまでにはしばらく時間が必要だった。

 実際のところ、ジュンが事態に気づいてから正確に把握するまでには更に数秒の時間が必要だった。なぜなら耳鳴りの奥でじりじり鳴りだした血の流れとともに倒れたジュンの顔を覗き込んできたそいつはやはりキリウ君だったが、知らないキリウ君だったのだから。

 ジュンの聴き間違いでなければ、そいつはジュンの顔を何度か見つめ直したあと、唐突に「やばい」と口走った。何がだ、と思う間も無くジュンは上体を引っ張り上げられ、次の瞬間には力任せにSUVの後部座席に押し込まれていた。空気が潰れる気配とともにバタンとドアが閉められるや否や、そいつが運転席の男に向かってはっきりと言った。

「やばい。人違いかも」

 即座に運転席から放たれた舌打ちは、エンジンがかかったままの車内でいやに鋭く響いた。それから大きな溜息と、体重がかけられたと思しきシートが軋む音。

 ふわりと車が発進する揺れとともに、呆れ返ったような男の低い声が聴こえてきた。

「てめーはよ本当に」

「ごめん」

 自分の上でそのキリウ君がぺこりと頭を下げたのが、後部座席にうつ伏せに押し付けられたままのジュンにも分かった。素直でいいな、これどこ行くのかな、曖昧にそう思ってジュンが疲労した意識を閉じかけた時、しかし後ろからキリウ君に襟首を掴まれる形で強制的に引き留められてしまった。

「でもだって、見てこいつ、背格好も顔もキリウ君だし」

「髪が青くねーだろーが髪が。色盲か貴様は」運転手は軽くこちらを覗き込んだのか、先程よりほんの少しだけ近くから声がした。

「夜だし。帽子かぶってたし」

「同族の見分けもつかねーのか愚図。いつかこうなるとずっと思っていた」

「ウソつけ! てか最近、このあたりで屋根の上に居たの見たんだよ、ちゃんとしたやつが!」

 それはうちのキリウ君かもとジュンは思ったが、そんなことを知る由もないここの『キリウ君』はずいぶんと神経を毛羽立たせた様子で喚いていた。まあ、当たり前だろう。どうやら彼はキリウ君と間違えてジュンを襲ったようだから――。

「で? こいつを人違いでしたと解放して、ようやくオレ達はブタ箱行きか。馬鹿すぎて泣けてくる」

「ごめんってば。ほんとあんたにはごめんだけど、まあ、潮時ってやつかも」

「黙れ同族殺しが。くだらなすぎて涙が出てくる」

 頭の傷の痛みがくっきりとした輪郭を持ったようになり、流れ出す血の感触とともにジュンの視界が僅かに鮮明になった。周りが変わったのではない、ジュンの感じ方が変わったのだ。ぱちりと目を瞬いたジュンの身体は、警報音のように打ちまくる鼓動の上で冷や汗にまみれており、喉と胸の間が息切れしているかのように痛んでいた。

 ジュンが発しようとした声はひどく掠れていて、しかしそれはそのまま外に出ていた。

「あんたらなのか」

 その途端、キリウ君と運転席の男とが小競り合いをやめて、ルームミラー越しのものを含む視線が一斉にジュンに向いたのが分かった。

「……ぼくの兄を殺したのも」

「はぁ?」

 ジュンのその言葉に脊髄反射で反応したのはキリウ君だった。彼はジュンの意識があることに気付くなり、どこからか(助手席の下だ)取り出したガムテープで手荒くジュンを拘束し始めた。一方、位置の関係でジュンがほとんど見えていないであろう運転席の男の声が飛んできた。

「いつ頃だ?」

「今年の三月ごろ……、十五丁目の」

「悪いがそれはオレ達じゃない。濡れ衣だな」

 声にならないジュンの呟きは、ウインカーの音にかき消された。

 こんなにも簡単に夜道で他人を襲うような人たちにこうもあっさりと否定されると、それはたぶん本当なのだろうなと思ってしまい、ジュンは駆られかけていた怒りのやり場を失った。頭の痛みと微かな吐き気を思い出して、急に気分も悪くなったような気がしていた。そのまま大人しくというよりはヤケクソ気味にガムテープを巻かれていたジュンは、ポッケのスマホをキリウ君に見咎められて抜き取られても、反応すらしなかった。

 しかしこの時、キリウ君はジュンの虚ろな目の中に何を見たのだろう。彼はスマホのカドで顔を小突いてもジュンがろくに反応しないのを見ると、途端に不愉快そうな顔になって、ジュンを威圧するように肩を掴んで身体を揺すってきた。そしてガムテープでぐるぐるになったジュンを再び引き倒し、汗ばんだ熱い手のひらでジュンの頭をぐいとリアシートに押し付けてきた。

 最近こんなんばっかりだ、とジュンは息を止めたまま思った。状況が状況なので先程は気づかなかったが、この車はなんとなくシートからタバコの匂いがしていた。ただでさえ丸一日に渡る作業とこの出来事とで疲れ切った頭が、いつもより三倍くらいは重たくジュンは感じていた。