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8.スパークリング・メモリー

 兄が死んだことを知らない友達と会った。

 ジュンには兄が死んで初めて知ったことがたくさんあった。そのひとつが、誰にも伝えていないことは驚くほど誰にも伝わっていないということだった。ある意味では、ジュンがずっと心のどこかで兄が死んだことを受け入れられていないのは、そのような姿勢が一因だったのかもしれない。

 数年前、生産所の所長の通夜に行くよう命令されて、ジュンは兄と一緒に式場へ赴いたことがあった。生産所産の子供たち全員に報せが届いたらしく、弔問客が殺人的に多くて磨り潰されそうだったことと、兄が死ぬほどダルそうな顔をしていたことしかジュンは覚えていない。けれどそういった催しがあるとこんな風にはならないのだろうな、とも今のジュンは思っていた。

 そしてジュンは今日も、兄が死んだことをそいつには伝えなかった。育った施設が同じだっただけの友達なので、教えなくても大丈夫だと判断したからだ。

 そいつは駅ビルの靴屋でジュンとミーちゃんを見かけて気軽に声をかけてきたが、彼は近くにキリウ君がいることに気付くと驚いて「仲良いじゃん」とからかってきた。もともとジュンは生前の兄とはそこまで行動を共にしていた方ではなかったので、一緒にいるところを見て意外に思ったそうだ。(それはべつに仲が悪かったとかじゃないんだけどなとジュンは眉をひそめたが、「仲が良いとは思わなかった」は「仲が悪いと思っていた」とイコールではないと思い直し、口を噤んだ。)

 キリウ君だけでなくジュンまでもしばらく姿を見せていなかったために、店先ながら、立ち話はちょっとした近況報告に及んだ。ジュンは慎重に話題を選びながら当たり障りのない話をしたが、その間キリウ君はずっとジュンに話を合わせて完璧に兄として振る舞っていた。

 しゃあしゃあとウソをつくのだな、とジュンがちらりと彼のキリウ君を盗み見ると、それに気づいたキリウ君はにこっと口元だけで笑った。

 しばらく友人のバンドの話を聞いた後、それじゃとジュンが別れようとすると、しかし彼は名残惜しそうに今度はミーちゃんに絡んできた。美少女にいい顔をしたいのか、彼女が持っていたローファー用のクリームを見て「(店の)ポイント余ってるから」とかあれこれ言って買い与えようとしていたけれど、借りを作りたくないのでジュンが阻止した。

 

  *  *  *

 

 平日昼間のショッピングモールはだいぶ閑散としていた。心配になるくらい人がいないフロアで、ジュンたちは休憩用のソファに座って先程買った靴を開封していた。わけのわからんお喋りをしていたせいで、履いて帰ると店員さんに伝え忘れてしまったせいでこうなっている。

 今日の主目的はキリウ君の靴を買うことだった。兄は靴をいくつも持たないタイプだったので、血まみれになったものが処分されてしまったきり、家から兄の靴は一つも無くなっていた。だからキリウ君が今履いているハイカットのスニーカーはジュンのものだ。それは夜な夜な屋根の上で走り回ったり、意味も無く野良犬を追いかけ回したりといった彼の生活に付き合わされて、早くもへたれ始めていた。

 そんなことはどうでもいいんだ。それより、兄が身につけるものの傾向はジュンと違っていたので、こうして自分の靴を履いている彼にはやはり違和感の拭えないジュンだった。

 ジュンが思うに兄は服も靴もラクなものしかダメだった。通夜のとき、制服なんか持ってないから、貸し与えられたブラックフォーマルが窮屈で仕方なかったらしい兄のぼやきが懐かしかった。とはいえジュンはジュンでミーちゃんに着せるものばかりに金を使っていたから、自分自身の傾向と言えるものが現れている着衣はほとんど無いのだけれど。

 ――何やらやっているなと思ってジュンが見ると、キリウ君は箱から取り出した新品のスニーカーの靴紐を全て解いて引っ張り出していた。ちくちくと丁寧にやっているのを眺めながら、あのさ、とジュンは切り出した。

「ぼく、これからもキリウ君のこと、他の人には兄って言うから」

 彼は手を止めることなく無言で頷いた。まるで当然だとでも思っているように。

 新しい靴紐を開封している彼の隣で、あのさ、と再びジュンは切り出した。

「なんであんなに知らない話に合わせられるの?」

 やはり彼は手を止めることなく、しかし今度は顔を上げてジュンの目を見た。

「だって知らなくないから」

 その瞬間、くっきりとしていた彼の瞳の赤色が、微かに薄くなったようジュンの目には映った。

 自分と彼とどちらの目が疲れているのだろうかとジュンが疑った時、しかし彼はすでに視線を手元に戻して、新品の真っ赤な靴紐の折り癖を指で延ばしていた。両手でぴんと引っ張ったそれを見つめながら、彼は独り言のように呟いていた。

「全部知ってる。全部。キリウ君ってそういうものだから」

 それから彼は、慣れた手つきでしゅるしゅると赤い靴紐を穴に通していった。みるみるうちに、あるいは単にジュンが呆然としているうちに通し直されたそれは、正面から見たとき紐がX字ではなく地面と平行に見える形に編み直されていた。彼はつっかけられるくらい緩めたままのそれに足を突っ込むと、最後に不思議な手つきでちょうちょ結びを作った。

 細かいところはジュンには分からないが、見た目は兄がやっていたのとまったく同じ結び方だった。いつも玄関掃除する時に目に入ってたから覚えてる。

 いつの間にかそれを凝視していたジュンを見て、キリウ君が微かに笑った。

「いなくなったキリウ君のこと全部思い出せる。パスワードもほんとは知ってる。でも俺、まだ兄じゃないと思うから」

 踏み入らないで待ってる。

 そう呟いた彼の確かに薄ぼんやりした瞳は、この世ならぬどこかに向けられているみたいだった。

 彼の話を聞いてジュンは、なんでか頭に血が上ってきて猛烈な眠気を感じていた。ジュンは昔から、どうすればいいか分からなくなると寝てしまう傾向があった。けれど今のそれは、戸惑いよりもどこか泣きたい気持ちが強かった。

 こんなところで寝るわけにも泣くわけにもいかず、ジュンが落ち着くまで少し待ってもらっているうち、しかしいつの間にかミーちゃんがキリウ君の膝に上体を預けてうとうとしていた。身体を丸めて幸せそうに目を閉じているミーちゃんを見て、ジュンは今度こそ今すぐ帰って寝たくなった。