作成日:

6.壊れかけのキリウ君

 ジュンは兄との思い出の夢を見ていた。違う、こんな思い出は無い。ジュンの記憶と感情が作り出した幻だ。

 そこにいる兄の顔や手足には、全身殴打された際に出来た痣や傷痕がぼんやりと浮かび上がっていた。それは、想像の中の事件現場で見たもののようジュンには思えた。けれど、ここまではっきりとは想像していなかったはずだ。ジュンは兄のキリウ君の死体を自分の目で見ていない。その腐りきった事実が、ジュンの気持ちをこうも複雑にかき乱している。

 どこから来てどこへ行くのか、兄弟なのによくわからないヤツだった。ジュンにとってのキリウ君は一番身近な他人だった。わからないほどの他人で、わかりたいほどの他人でもあった。

 今は少しだけわかる気がしていた。この世に生を受けるというたったひとつの理不尽さに耐えるために、何かしらの役割を欲したとき、キリウ君の目の前に同じ株を親に持つジュンがいた。記号でしかなかったそれに彼が意味を見出したから、ジュンは今も弟でいる。

 それを彼の弱さだなんて責める者はいない。それが遺してしまったものの痛みをわかってくれだなんて、ヘナチョコなことは言いたくもない。

 だから泣きながら目を覚ましたとき、ジュンは決心した。

 もはや正気を失くした自分の妄想だとしても構わなかった。次に見つけた『キリウ君』だけは守らなければならないと誓った。

 もしかしたら図書館で出会ったあの少女も、そういう気持ちだったのかもしれない。

 

  *  *  *

 

 会えると思っていた。兄がいそうな場所にいるならばそれが一番良いと思っていた。けれどジュンが終電後の駅のホームでミーちゃんとともに『彼』を見つけたとき、果たしてそのキリウ君は壊れかけだった。

 まずからして、全身が半透明だった。ぷわぷわとガスの足りない風船のように宙を漂っていて、上下も逆さまで、人形のミーちゃんよりも虚ろな目をしていた。ジュンが恐る恐る彼のシャツの裾をつまんで引っ張り下ろしたら、べしゃっと地面に落ちて少なくとも半透明ではなくなったが、心なしかまだ瞳の赤色が薄ぼんやりしているし、おおよそ人間のようには見えなかった。

 彼はジュンが名前を呼んでも反応しなかった。しかし諦めずに何回か大声で名前を呼んで頬を叩いたら、地べたに座り込んだままの彼は、ようやく空っぽの心でジュンを捉えてくれた。

「キリウ君だろ。探してたんだ」

 にわかに血の気が戻りだした彼の顔は、見れば見るほど見慣れた造形だった。そうも凝視しながら話しかけたジュンに向かって、なぜか彼はへらっと微笑んだ。

 その直後、どこからかプラスチックが砕けるような音がするとともに、彼の背中に、身長ほどもある銀色の光の翅のようなものが浮かび上がっていた。

 暴風を伴って一瞬で飛び立った彼は、唖然としているジュンを残して、もの凄い勢いで夜空を飛び回っていた。あひゃひゃひゃひゃと高らかな彼の笑い声が暗黒の空に響き渡り、しかし彼自身のスピードにかき乱されたそれは、たいぶ不思議な風合いとなって深夜の街に降り注いでいた。

 逃げられてしまう、と急にジュンは現実的な不安に捕われて声を上げそうになった。しかしミーちゃんに袖を捕まれたことで口を閉じた。ミーちゃんは空に描かれたぐちゃぐちゃな光の軌道を指で示して、「もどってくると思うよ」と言った。

 後で彼女が話してくれたところによると、べつに明確な根拠があったわけではなく、単に彼女はジュンを落ち着かせるためにそう言ったのだそうだ。とはいえそれはミーちゃんのふんわりとした言語処理エンジンの言い分であり、実際のところミーちゃんは、彼の飛行軌道からなんとなくキリウ君が意思を持って飛んでいそうなことを判断していた。(人形というのは人工物であるぶん、そういうところはわりとしっかりしており、ジュンもその点に信頼を置いている。)

 そして実際に――ぐるっと辺り一帯を飛び回ったあと、覚醒したキリウ君はジュンの前に戻ってきた。

 キリウ君は四枚の翅を引っ込めずに、地面から八十センチ浮いたままじっとジュンを見ていた。ジュンは気圧されながらも、今度は彼の手首を掴んで再び彼を地面に引っ張り下ろした。そしてもう逃がしてはならないと、手を離さずに彼の目を見て言った。

「うちに来なよ」

 しかしこの時ジュンは、自分で決めたことだけどこのキリウ君は兄よりイカれてるところがあるし気が合わないかもしれないな~~、などと無責任に思ってもいた。

「どうして?」

 そんな些細な世界の揺らぎなど意にも介さず、キリウ君は覚醒してなお薄ぼんやりした目をしており、自分の手首を掴んだままのジュンの手を不思議そうに見下ろしていた。ジュンは深い呼吸を挟んで、はっきりと言った。

「部屋が余ってて気持ち悪いんだ」

 それを聞いて笑ったキリウ君の顔がひどく懐かしくて、懐かしくて、泣きそうなほどに嬉しかった。