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5.ラジオなんて本気で聴いてどうするの

 ジュンの兄のキリウ君はラジオを聴くのが好きだった。この無骨な携帯ラジオは、彼が事業所の報酬を貯めて買った数少ない私物だ。大切に扱っているように見えるわりにぼろぼろなのは、テンションが上がるとたまに噛んじゃうからだと本人が言っていた。

 今考えてみても意味がわからない……。そんな想いに浸りながら、ジュンは近頃の習慣となっていたそれのスイッチを入れた。日中は主に世間で起こっていることを知るために使用していたが、今夜の目的はキリウ君がよく聴いていた深夜番組を聴くためだ。

 ジュンとキリウ君は同じ環境で過ごした同い年の兄弟だが、好きになるものの傾向はだいぶ異なっていた。その番組を初めて一緒に聴かせてもらったときも、頭がぐらぐらしてしまったのをジュンはよく覚えている。もっとも、こうして何度か聴いていたらすぐに馴染んでしまったので、世の中って案外そんなものかもしれなかった。特にジュンには食わず嫌いの気があり、兄の影響で手を伸ばしてそのまま好きになったものがいくつもあった。

 逆が一つでもあったかは、わからないけど。

 そうセンチな気分で無作為にチャンネルを回していたジュンの耳に飛び込んできたのは――しかし、その兄の不遜な声だった。

 いや、これは『キリウ君』の声だ。まだジュンが聴こうと思っていた番組までは二十分程度の時間があり、今ラジオから流れてきているのは、ひとつ前の枠の別のローカル局の番組のようだった。初めて意識的に耳にしたその電波に、キリウ君の声が乗っている。

 やっぱり頭がおかしくなったかも、とジュンは微かに思った。(ジュンは自分自身もキリウ君とほぼ同じ声をしていることには気づいていなかったので、それを自分だと思うことは無かった。)

 現実的なアプローチとしてジュンは、いま喋っている人の名前が分からないかと、その番組を聴いてみることにした。するとやはり確かにキリウ君の声だ、キリウ君の声が公共の電波でべらべらと喋りまくっていた。しかしパーソナリティが一人で喋る形式の番組らしく、どうにも彼が名前を名乗ることも呼ばれることも無かった。リスナーからのメッセージもいくつか読み上げていたが、大喜利コーナーのようで、彼への挨拶や呼びかけが含まれているものはひとつも無かった。

 そして番組も締めに入ろうとしたとき、「この番組では引き続き普通のお便りを募集しています」という定型文の後に読み上げられたアドレスに、ジュンは衝動的にメッセージを送ろうとする。

『あなたはキリウ君ですか?』

 しかし番組のテーマやコーナーと何の関係もないメッセージを送ることは、常識的に考えて躊躇われた。ジュンはしばらく悩んだ末、番組の内容に沿ったメッセージを打ち直し、キリウ君のキの字もなくなったそれを送信した。

 何やってんだろう、とジュンがため息をついたとき、すでに時刻は当初聴こうとしていた番組の開始時間を三十分以上も回っていた。

 

  *  *  *

 

 二日後、ジュンはネットでその番組について情報を集めていた。すぐにそうしていればよかったのだが、身の回りのこともしなければいけなかったし、何より突然キリウ君の声を聴いたせいで気が動転してしまっていたので仕方がない。このように薄々解っていたことではあるが、ジュンはあまり丈夫な精神を持ち合わせていないので、己がマイペースにやっていくことにも寛容になっていこうと近頃は努力していた。

 結果として、その番組――咎浜区のローカル番組『TOGAHAMA NIGHT DROPS』は、複数のパーソナリティが持ち回りでやっている深夜帯の帯番組だった。かのキリウ君は主に水曜日の担当で、どうやら『ぐらほ』と名乗っていた。キリウ君どうこうを抜きにして聴き慣れない響きだなとジュンは思った。

 それからしばらく、ジュンはネットにアップロードされていたそのラジオのバックナンバーを聴き漁った。どう見ても番組に許可を取って行われているようには見えなかったが、この際無視して聴き狂った。

 ローカル番組にも関わらずまめなファンがいるのか、あるいはメッセージをよく送っている人がやっているのか、実際のところアップロードされていたのはメッセージの読み上げをメインに進行するコーナーのみが切り取られたものだった。水曜日のみに絞って探してみると、数年前から放送している番組ながら『ぐらほ』はおそらく毎週欠かさず喋っているようだった。

 ジュンは自分の知らないキリウ君が知らない語彙で知らない話をしているのを改めて聴きながら、ひどく形容し難い感情を抱いていた。何せ『ぐらほ』改めこのキリウ君は本当にこまっしゃくれていて、ジュンの兄の三倍はひねくれていて陰湿で、とにかく全くの別人だったからだ。

 しかし声自体はどこまでもキリウ君のそれであったし、何より毎週喋っているだけありトークの腕前は確かなようにもジュンは感じていた。たとえばジュンの兄は論外と言えるほど時事には疎かったが、このキリウ君はまったくそうではなかったし、むしろネタにするために勉強していることが伺えた。ジュンと歳も近いだろうに、リスナーからのどんなにくだらないメッセージに対してもひねくれてはいるが中身のある返事をする彼は、どこか人生経験が豊富そうな印象すら受けるものだった。

 さて、そういう経緯でジュンが、一年以上昔に放送されたとある放送回を聴いていた時のことだった。

 その回ではキリウ君がリスナーから寄せられた恋愛相談に答えており、なぜかジュンの方が異様に気恥ずかしいというかいたたまれない気持ちになってしまい、ジュンはつい気を紛らわそうと無意味にファイル情報やコメント欄に目をやっていた。

 ところでこれら無断アップロードされているバックナンバーたちは、実際のところ閲覧数はさほど多くなく、閲覧者が書き残したコメントもほとんど無かった。無断でアップロードされているものだから、そうであるに越したことはないだろうけれど。

 しかしよりによってその回には、「キリウ君?」とだけ書かれたコメントがひとつきり存在していた。

 この時ジュンは、この世にただひとり言葉が通じる人を見つけたかのような気持ちになった。

 そしてほとんど反射的に、「キリウ君だよ」と返信コメントを書いて送信していた。

 そんなこと言い切れるはずも無いのにだ。それともそうであると思い込みたかったのは、ジュン自身なのかもしれなかった。ただジュンは、自分以外にキリウ君の存在を知っている人を見つけて、本当に心の底から嬉しかっただけなのだ。

 

  *  *  *

 

 明くる水曜日、今日こそリアルタイムで聴いてみようと胸をどきどきさせていたジュンを待っていたのは、なんの説明もなく変更された新しいパーソナリティの声だった。

 何かあったのかと思いそれから一週間ほど聴き続けてみるも、翌週も同じだった。まるでキリウ君なんて最初から存在しなかったかのように。嫌な予感に駆られてネットを確認すると、番組の紹介ページに『ぐらほ』の名前は無く、代わりに全く知らない名前が掲載されていた。そして例の無断でアップロードされているバックナンバーも、全て権利者からの申し立てにより削除されていた。

 だというのに久しぶりに開けたポストには、ラジオ局から届いていた番組オリジナルポケットティッシュが入っていた。毎回抽選でプレゼントされているもので、以前にメッセージを送った際のものが当選していたようだ。番組のロゴの下には『ぐらほ』のこなれたサインが手書きされていた。

 この時ジュンはなぜか、あのコメントにあんな返信をしたのが悪かったんだ、と思った。

 悔やんでいた。直感したのだ。兄と同じように、このキリウ君も誰かに消されたに違いないのだと。