作成日:

4.アルミニウムイオン

 ジュンは青いアジサイの庭園でひとり考え込んでいた。コンクリートに覆われた街で剥き出しの土がわずかに残ったこの箱庭は、いつ来ても天気雨の後のように空気がしっとりとしていた。

 ミーちゃんは部屋に置いてきた。読まなきゃいけない漫画があるって言ってたから……。そういう意味では、たった数か月かそこら離れていただけで、ジュンも幾分か世の中から取り残されてしまったよう感じていた。

(そう感じるのはなんでだろう? 漫画雑誌の目次も流行りの音楽ランキングに出てくる名前もたいして変わってはいないのに。きっと、記憶の中の空白それ自体がイヤなんだ。自分が知らない間に、自分以外のみんなが知ってることが起きてたら、それが寂しいとぼくは思うんだろうな)

 ……。

 やっぱりなんだか納得がいかない、とジュンは息を吐いた。この街にほかにも兄と同じ顔をした人たちがいるとして、彼らと遇うかもしれないのが、正直怖かった。

 柵の無い池の縁にしゃがみこんだままのジュンが指のささくれを引っ掻いていると、すぐ近くを作業着姿のカッパが歩いていった。あのカッパは以前からずっとここにいる庭師で、作業着の上に甲羅という異様な風体をしているからとても目につく。そういえば、ジュンの兄はカッパが好きだった。なのにカッパがいるからと散歩に誘っても、頑なに着いてこようとはしなかった。聞けば、わりと複雑な感情で好きになっているそうで、顔見知りになりたいといった気持ちは抱いていないらしかった。

 兄はいつもそうだった。ジュンとは違う世界観を持ち、ジュンとは違うロジックで動いている。どちらが良いとか悪いとかいう話ではない。ただ、彼を理解しようとジュンが努力する素振りを見せると、ちょっぴり面倒くさそうに笑うのだった。

 あれこれ想いを巡らせているうち、ジュンは膝の上で腕に顔を突っ伏していた。ぼんやりし始めた目を瞬きながら顔を上げたとき、しかし、ジュンは水面に映った影を見てびっくりした。

 影はふたつあった。いつの間にかジュンの隣に、見慣れた背格好の少年が立っていた。彼は妙に腰の引けた姿勢で、いや、横からぬっと身体を乗り出すようにして、目下のジュンを見下ろしていた。

「あの」

 彼の声だ。でも、出だしが怪しい掠れ方をしていて、すごく怪しかった。

 なんだこれ。

 ジュンは頭の回転が著しく落ちていることを自覚しながら、目だけで彼を正しく認識しようとした。空色の髪。ジュンと同じ色をした瞳。バンドT、ハーパン、白衣、サンダル。

 なんだこれは?

 ジュンが笑い出しそうになった神経を心で握りつぶした瞬間、斜め後ろからカッパのいい声がした。

「どうしたの」

 カッパはキリウ君に声をかけていた。ジュンの横にいるキリウ君は鳥みたいにあちこちを見た後、ひどく不審な調子で急に喋りだした。

「あの、この人、具合悪そうで」

 そうだったのか。彼はジュンがこんなところで顔を伏せていたから、心配になって覗き込んだだけなのだった。

 ああ、今また違う表情で覗き込まれた。ジュンは横に立ったままの彼を手で制して、露骨にならない程度に顔を背けた。ジュンはこんなに精神の揺らぎが外に出るようなケチな身体をしていたのか? していたのだろう、ここ数か月や昨日おとといのことを思うと、本当に。

 固まりかけのジュンの頭の中に、ユコと彼女のキリウ君がちらついた。ここにいるキリウ君はまた違うキリウ君だ。それも明らかにジュンの兄とは違うタイプのキリウ君だった。何も恐れる道理は無い、何も……。

 その場で数度の深呼吸をしたジュンは、そのキリウ君と目を合わせないように立ち上がり、微笑んで会釈して、明後日の方向に歩きだした。落ち着いている素振りをしながら、心は熟れすぎたトマトよりもぐちゃぐちゃだった。

 やっぱりなんだかおかしい、とジュンは出口を間違えながら思った。こうも立て続けに、知っている場所に知らないキリウ君が現れた。だとすれば、この街には普通に暮らしてて出会うほどのキリウ君がいるのに、なぜジュンはこれまで兄以外のキリウ君に一度も出会わなかったのだろう。

 実は全部ジュンが見ている幻覚だったりしたらどうしよう。どこから? まさか、生まれた時から!?