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30.来年の大晦日

 気がついたら一年経ってる……。事業所に顔を出したときにカレンダーを見てジュンがそう呟いたら、「お前その若さでその感覚はヤベェよ」などと管理者から言われてしまった。どうヤバいのか尋ねたら、同じような日々の繰り返しを送っているわけでもないだろうにそんな気持ちになることがヤバいのだと教えられた。

 しかし管理者は知らないだろうが、ジュン自身は毎日ほとんど同じようなことの繰り返しで生きているつもりだった。良く言えば気まぐれだった兄とは異なり、ジュンはできれば習慣を守って生活したいのだ。他の子供たちのように追加の学習プログラムを受けているわけでもないし、かと言って生活リズムを振り回すような趣味があるわけでもない。今はいつか『自立』することを夢見て、ひたすら働いているだけ。

 強いて挙げれば年賀状を書いたことくらいだろうか。最近あった変わったことと言えば。

 普段は季節の行事にも特別にお金はかけないし、サンタがいないせいでクリスマスなどは大嫌いだが、ジュンは年賀状だけは書くのだった。日常的にお世話になっている人たちがいるのと、同じ施設に居た知人たちにも便りを出したいからだ。何より素敵に着飾ったミーちゃんの写真を送れると思うと心が躍った。

 ああ、もしかしたら、兄は年賀状を嫌っていたが、きっと絵柄や文面を考えるのが面倒くさかったのだろうとジュンは推理した。だったらジュンがミーちゃんの写真を融通してあげればよかったのかもしれないな。

 行事で思い出したが、もう一つ変わったことがあった。

 先週、正月の予定はあるかとユコに訊かれたのだ。それで、ジュンが無いと答えたら「うちに来ない?」と尋ねられた。聞けばユコの家はもともと正月には人をたくさん招くだとかで、事前に分かっていれば客が増えても特に問題は無いのだそうだ。なんならドタキャンや飛び入りもそこそこいて、正月料理を食べて酒を飲んでパーっとやるらしい。相変わらず彼女のことをあまり知らないままでいたジュンは面食らったが、彼女はこうも言った。

「今年の正月はそんな気分じゃなかったし。来年は、ちょっとだけ明るく過ごせたらって」

 そうだった。

 去年の暮れにキリウ君が出て行ったものだから、またジュンはほとんど暗い気持ちで年末年始を過ごしてしまっていたのだった。ユコはそのことを知っているからこそ、こうしてジュンに声をかけてくれたのだろう。それでもジュンが気乗りせずに渋っていると、しかし横で聞いていたミーちゃんがおせちの話に釣られて「行きたい」と言い出したので、最終的には行くことに決まったのだ。

 ジュンは、なんだかいまだに周りの人たちに気を遣わせてばかりのような気がしていた。

 

  *  *  *

 

 二〇二三年、大晦日。その日の朝、ジュンが唐突に強烈な違和感に襲われて洗濯機の前で固まっていると、ミーちゃんがジュンに飛び付いてきて言った。

「今日ね、良いことがあるよ」

 ジュンはてっきり彼女がまたテレビのお笑い番組を楽しみにしているのだと思ったが、どうやらそうではなかった。彼女は最新アップデートで追加された『ダウジング結果の共有』機能を使ってジュンのスマホに位置情報を送って、自信ありげに胸を張った。

「ここに行くといいことがあるの」

「何それ……何?」

「それはわかんないの」

 彼女はうまく説明できないのか、急に困り顔になって、今度はジュンのスマホに自分のファームウェアだかソフトウェアだかの最新アップデートのリリースノートの一部を送ってきた。どうやら『虫の知らせ』機能が追加されただとかで、第六感が利く人形ならば色々と活用できるらしい。優秀なミーちゃんは早速、ダウジング機能と組み合わせて使ったようだ。

 虫の知らせと言えばちょうどジュンもおかしな気配を感じていたのと、何よりミーちゃんの言うことなので、ジュンは彼女を信じることにした。そして洗濯物を干したらすぐに家を出て、一人で電車に乗ってそこへ向かったのだった。

 その場所は、いつか来た海岸だった。

『ジュンちゃん、ここだよ』

 ジュンはメッセンジャーアプリでミーちゃんから受け取ったメッセージに添付されていた位置情報を確認して、自分が向かっている方角が正しいことを確認した。(それにしても、ダウジングに関してはペンデュラムで辿っていく方が味があって良かったので、今後は急ぎの時以外は使わないだろうなとジュンは思った。)

 大晦日の真昼間の海辺は、人類が滅びた後の世界だと言われたら信じてしまいそうなほどに人がいなかった。ジュンは黒っぽい砂浜を足早に歩いていたが、今朝から頭にビリビリ来ている違和感が更に強くなっていたため、気付けば小走りになっていた。乾きかけの海藻や流木を飛び越え、スニーカーに砂が入り込みながら走り続けて首元が汗で濡れ始めた頃、向こうの岩場の影で何かが動いたのが見えた。

 位置情報と方角に相違が無いことをもう一度確認できたとき、ジュンは小走りではなく普通に走っていた。

 見かけより遠いそこに辿り着くより前に、動いたものがカラスであることは目視できていた。けれど脚を止めず息を切らしながら岩場を覗き込み、最初にその光景を見た時、ジュンは以前に兄とここに来た時に見たものを思い出した。

 魚の死骸の周りをうろついていたカラスの群れだ。正確には、数羽のカラスが群がっていたから何だろうと思って見たら、その真ん中に魚の死骸が転がっていたのだ。食べかけの焼き魚のように骨を露出させた魚の死骸は、きれいに肉や眼球が啄まれていたが、微かな悪臭に嫌悪感が滲んだことをジュンは覚えている。

 だったら今日のこれは――。

 誘われるようにふらりと飛び出したジュンは、蹴散らすつもりでそこにいたカラスの群れに突っ込んだ。実際のところ、カラスたちの方からリーチに入る前に飛び退いていってくれたために掠りもせずに済んだが、そんなことはどうでもいい。

 岩の上からカラスたちに見つめられながら、ジュンは目下の砂浜に横たわる『それ』を見下ろした。そして、膝からその場に崩れ落ちた。

「嘘……」

 無意識に呟いていた。

 ジュンの目の前に転がっていたのは少年だった。あれだけ何人も街にいたくせに、気が付けば一人残らず姿を消していた少年。ジュンと同じ年頃、同じ背格好。砂にまみれていても鮮やかな空色の髪、伏せられて見えなくたって確信できる赤い瞳、何考えてるのか教えてくれない自己中で虹色の脳みそ、最後の記憶よりずっと肉が削げ落ちた身体。

 すべてあるべき場所に収まっているのに、彼にはそれ以外にひとつだけ明らかにおかしなところがあった。彼のシャツは背中が大きく裂けており、その内側の身体には固まりかけの血がべっとりとこびりついていた。この匂いがカラスたちを誘き寄せていたようだ。ジュンが恐る恐る触ってみると、少年の肩甲骨の上部にはまるで天使の羽をちぎり取ったかのような真新しい傷跡があった。

「え……、あ」

 困惑がそのままジュンの口から出ていた。彼はいったい何……『誰』なんだろう? どうしてここにいるんだろう?

 けれどそれらを気にするより早く、ジュンは衝動的にその身体を引っ張り起こして、ジャケットが砂だらけになることも厭わず彼の上体を抱き締めていた。

 海水に浸かってこそいなかったが、やはり彼の身体は冷え切っていた。忘れかけていた、いつか触れた水の中の死体のようなぞっとする冷たさがフラッシュバックしたが、その奥にジュンは確かに自分のものではない心臓の音を聴いた。

「救急車……」

 独り言だ。持っていたはずのスマホが失くなっていて、取り落としたらしきそれを探して後ろを向いたジュンの肩口で、微かに腕の中の少年が動いた。

 

  *  *  *

 

 呪われたクジラが死に、クジラを殺すほどのキリウ君の古い毒電波が降り注いだこの街とそこに住む彼らがこれからどうなっていくのかは、誰も知らない。

 

(完)