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3.その少女、凶暴につき

 とんでもないことをした!!

 とんでもないことをした。謝りたかった。ショックで完全におかしくなっていた。あの顔をまた見ても正気でいられるよう最大限の努力をするから、どうかもう一度会って謝れないかと思った、会わなければならないと思った。決して彼のためとは言えない、自分のためにそうしなければジュンは頭が爆発してしまいそうだった。

 だからすぐ翌日、ジュンはダメ元で同じ場所をミーちゃんと手分けして張っていた。同じ場所に同じ時間帯、えんぴつを転がして出た面も同じだから大丈夫だ。そうして祈るような気持ちでいたジュンの前に現れたのは、果たしてキリウ君の友達を自称する学生の少女ユコだった。

 もっともそれらは後から知ったことで、この時ジュンには彼女の名前を知る機会など無かった。

 彼女に対する最初のジュンの関心事は、彼女が返却しようとしていた本の色合いが昨日のキリウ君が弄んでいたものと同じだったことだった。散らかった返却棚を少し整理して本を置いた彼女は、エントランスのベンチの端に座っているジュンと目が合うと、なぜかすたすたとまっすぐ寄ってきた。そしてジュンの顔を確かめるように首を傾けて、こそっと声をかけてきた。

「ここでドッペルゲンガーの話をした?」

 何も知らずに聞いたら合言葉みたいだ。そのことに気付くとジュンは可笑しい気持ちになって、微かに笑って答えた。

「しました」

 その直後、彼女の手がびっくりするほど強い力でジュンの腕を引き掴んでいた。

 力任せにベンチから引き剥がされたジュンは、そのままぐいぐいとエントランスを横切って強引に外へと連れ出された。強烈なデジャヴだった。大声を出そうだとか振り解こうだとか思う暇もなく、気づいたときにはジュンは電話ボックスの中に押し込まれていた。

 図書館から出てすぐのところに二つ並んでいる、古びた電話ボックスだった。公衆電話というものが廃れて久しい。このボックスの電話機は撤去されており、空き缶や紙屑だけが放置されている棚にジュンは背中から押しつけられている。

 体勢が崩れているせいで、ジュンは同じくらいの背丈の少女から僅かに見下ろされる形になっていた。開け放ったドアに手をかけて立ち塞がるようにしている彼女は、凄まじく殺気立った顔をして、刺さりそうなほどにジュンを睨んでいた。その剣呑すぎる影にジュンは身の危険を感じたが、反面、彼女の口から出てきたのはまったく熱のこもっていない声だった。

「キリウ君に何の用?」

 その質問にあまり意味は無いのかもしれない、とジュンは直感した。

 これは脅迫なのだ。彼女――ユコがわざとパーソナルスペースを無視していることは明白だった。見ようによっては小ぎれいな少年のような彼女の顔立ちを観察できるほどに、ジュンは至近距離で彼女の敵意を一身に浴びていた。

 ジュンは唐突にそんなものを向けられて平気でいられる神経はしていない。ケンカとかぜんぜんしないで育ったし、ましてや修羅場に立ち会った経験も無かった。こういう面倒ごとは兄の十八番だった。頭がぐちゃぐちゃになってジュンが何も答えられないでいると、彼女はジュンがだんまりを決め込もうとしてると思ったらしい。学生服の膝丈のスカートの下から伸びた脚がやけに鋭く動き、ドンと音を立てて壁が蹴飛ばされる。

 こういうのダメだ、とジュンは頭を抱えそうになった。けれど自分が昨日の彼にしたことで今こうなっているわけで、半ば覚悟を決めて頭を下げた。

「ごめんなさい」

 ひとつだけ言い訳させてもらえるなら、彼女にここまでされなくてもジュンはキリウ君に謝りたかったのだ。そのために今日ここに来たのだから。

 ジュンの謝罪を聞いてもユコは微動だにしなかったが、続きを喋らせてくれるようではあった。ジュンは、彼が死んだ兄と同じ見た目をしていたから錯乱してしまったのだと説明して、もう一度詫びた。改めてキチガイそのものだったが、本当のことなので仕方がない。キリウ君がたくさんいるなんて知らなかったのだと、ジュンが釈明している間もずっと訝しげだった彼女の表情は、昨日会ったキリウ君とちょっぴり似ている気がした。

 と、そのとき、ジュンの右手側のガラスの遠くで小さな人影が跳ねた。

 見るとミーちゃんがわたわたと寄ってきて、しかしやや遠巻きに足を止めていた。声をかけていいのか迷っているようだ。ユコはジュンの泳いだ目線の先をちらと見て少し考え込んでいたが、やがて聴こえるか聴こえないか程度の舌打ちをして、電話ボックスのドアから離れた。

 外に出て狭くないところで再び向き直った時、彼女は嘘みたいに刺々しさが抜け落ちており、まるで別人のようにジュンの目には映った。彼女は、自分は昨日のキリウ君の同居人だと名乗った。そしてジュンの片腕に引っ付いたミーちゃんを一瞥して、しかしジロジロ見るのも良くないと思ったのか、ぼんやり気味に視線を逸らしながらぽそぽそと語りだした。

「なんかね。キリウ君が帰ってきた後、そわそわしてたから話聞いたら、知らないガキに襲われたって言われて。でもちょっと様子がおかしい奴だったから、あんまり騒ぎたくないって。でもまた行って顔合わせたくないから……代わりに本返してきてほしいって頼まれて」

 ジュンが気まずい気持ちでいると、彼女は軽くため息をついて続けた。

「会っても何もしないでねって言われたけど、顔見たら吹き上がっちゃった」

 何もしないでって??

 もはや他人のことなど何も言えない身でありながら、ジュンは身体の中を流れる血がくらりと偏ったのを感じた。そして少なくとも目の前の少女が、どうやら昨日のキリウ君から「何かする」と思われているらしいことを呑み込んだ。

 呑み込んだせいでまたくらくらしてきた。そんなジュンの機微を知ってか知らずか、いや、解っているのだろう。いつの間にか顔を上げていた彼女は、その涼しい目で咎めるようにジュンを射貫いた。

「謝らないよ。お兄さんのことは同情するけど。あなたにとっては知らないキリウ君かもしれないけど、私にとっては友達だから」

「……友達?」

「よくわかんないけど。とにかく、この街にはたくさんいてもおかしくないらしいんだから、見境なく襲うのやめなよ」

 友達という言葉にジュンの全身を縛っていた緊張が緩みかけていたが、追い打ちのように襲ってきたのは、それとはまた別の強烈な脱力感だった。

 ユコは悪びれもしない様子で「じゃあね」と呟いて、すり減ったスニーカーの踵を返していた。けれど去り際にふとジュンの顔を振り返って、ほんの少し軽薄に笑って言った。

「様子がおかしいって聞いてたけど、本当におかしいや。家に帰って寝た方がいいと思うよ」

 それはまるで憐れまれているようだった。

 学生鞄を片手にすたすたと去っていくユコの背中に、あんたらに会ったせいかも、などと恨み言をのたまう気力はジュンには残っていなかった。つい先日までほとんど家で寝ていたのにこのザマなんだけど、だなんて本当に夢にも。