作成日:

29.宿命よ

 帰って寝たい。寝れるかわかんないけど……。

 

  *  *  *

 

 痛いくらい輝かしい半月だ。雲より高いところを飛んでいるからすごく綺麗に見える。

 さすがに受信しすぎていた。年末の勢いなのか、直近の数週間だけでいなくなった全てのキリウ君がごちゃまぜになって乗っかってきているみたいで、頭がアホほど痛かった。おまけにただのセンチメンタルからIDカードを置いてきてしまったせいで、自分が誰だかも分かりゃしない。

 最初のキリウ君の欠片から生まれた全てのキリウ君は、ある種の集合精神のようなものを持っていた。それをどれだけ認識できるかは個体によって異なっていたが、時に逆さクジラの存在すら認識していない者を含む多くのキリウ君たちの無意識にまで届いていたと思われる、ひとつの言葉があった。

『最後の一人だけが実在するキリウ君だ。偽物がいるうちは誰も本物じゃない』

 それを唱えたのは最初のキリウ君ではなく、この街のどこかでもがきながら生きた別の恵まれないキリウ君だった。彼は臨死体験をきっかけに集合精神とクジラの存在を認識し、これ以上不幸なキリウ君を生まれさせないために、クジラを殺す――全てのキリウ君をクジラに食わせないまま殺す方法を考えた。

 それがこの与太話だった。彼はキリウ君というものが往々にして意志薄弱な性質を利用して、集合精神にこの言葉を吹き込むことでキリウ君同士が殺し合うよう仕向けたのだ。そうして後は最後に残った彼自身がどうとでもしてやろうというプランは、しかし彼の決して幸せではない人生すらエサにしようとする、悪食なクジラの呼び声によって崩壊した。

 なんだかもう、めちゃくちゃな話だ。それにクジラもこれを知ったらびっくりするだろうな、てめえのエサが共食いしてるんだから。

 もっとも、結果的には彼の手法は間違っていなかったと言えた。そうやって、クジラの与り知らぬところで継続的にキリウ君の頭数を減らし続ける仕掛けをしておいてくれたのは助かった。そして最後の一人になる者の仕事もやはり同じだった。一人になるまでもそれまでも何も変わらず、逆さクジラが最初のキリウ君の呪いで死ぬまで、全てのキリウ君を天使になる前に殺し続けることだ。

 普通のキリウ君に天使になるなと言うのは実ったトマトに落ちるなと言うようなものだったが、だったら自分が天使にならずに済んでいるのはきっと薄情だからだ、とキリウ君は思った。

 薄情なのだ。受信しやすいのと薄情なのとどちらが先だったのかは今でも分からないが、そんなことはどうでもいい。薄情すぎて自分自身も認識できなかった。何も無かったし何も分かろうとしなかったから、地に足が着いていなさすぎて翅が生えた。空も飛べた。

 誰でもない状態はさすがに気がおかしくなりそうだったから他の誰かに成り済ますことで正気を保っていたけれど、それがキリウ君が自分でやろうと思える限界だった。他の誰かの思い出に乗っかって生きてきたから、逆さクジラが欲しがるような思い出は持ち得なかったし、クジラに食われるのも嫌だったからそれで良かったのだ。それで十分生きていられたのだ。

 なのにあのジュンという少年ときたら何なのだ。

 兄弟がいるキリウ君なんて初めてだったから、キリウ君はちょっと楽しみにしていたのに。ジュンは兄の代替品を受け入れるどころか、だんだんとキリウ君自身のことを覗き込もうとしてきた。それが怖くてたまらなかった。ジュンは繊細というか少し神経の具合が微妙なやつだとは知っていたから、決定的なところを踏まないように気を付けて頃合いを見計らっていたのに、気が付けばキリウ君の方が、ジュンの弱さに乗せられてありもしない我を出し過ぎてしまっていたような気すらした。

 それともキリウ君が気づいてなかっただけで、いや無視していただけで、皆そうだったのだろうか。今にして思えば、あのバイクの男が言っていたように。

 胸が苦しいことよりもその理由を自分が知ろうとしないことの方が苦しくなって、キリウ君は逃げたくなった。逃げ出した。でも、やるだけやったら、怖くも苦しくもなくなるかもしれないと思っていた。

 だったら当面は何も願うわけにはいかなかった。そんな願いを、未練を持てるようになったのは大きな進歩だったが、それをクジラに気付かれてしまえば終わりだということも分かっていた。だからキリウ君はもうしばらく、自分なんか分からないままでよかった。きっと生きていく上ではそういう時間も必要だ、とどこかのキリウ君が誰かからか言われていたので、それでよいのだと思った。

 胸の内から黒焦げになってしまいそうなこの気持ちを、せめて同じキリウ君たちだけは分かってほしいだなんて言えなかった。今さら誰かに受信してほしいなんて思わないし、思いたくもなかった。どんな経緯で生まれようと、それぞれの場所に根差したキリウ君たちを奪いたいわけがなかった。

 最後にただひとりのキリウ君になれたとして、キリウ君に踏み躙られたキリウ君とその周りの人たちは、キリウ君を赦してはくれないだろう。

 それだけが本当にどうしようもなかった。

 年の瀬の慌ただしさとは無縁の半月だけがこの想いを知っている。