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28.逆さクジラの話

 このまちは『クジラ』を祀っていた。

 それは土着の神のようなもので、土地の霊的な汚染を防ぐ見返りに、満月のたびに子供を一人『供物』として要求した。昔からこのまちに住んでいる人々は周辺の汚染された土地が滅びていくのを見ていたので、それを疑う気持ちもありながら、ほとんど縋るようにクジラを受け入れていた。

 古い時代ではクジラは海のもので、供物の子供は生きたまま布で包んで砂浜に並べられ、波によってクジラの元へと届けられた。もっともクジラの巨体では浜に近づくことはできないため、実際にクジラを見た者は少なく、そのことは時とともに民衆の信仰心を失わせる一因となったと言えた。

 海にいたクジラが今のような空のものとなったのは、供物となる子供たちの性質の問題がきっかけだった。供物を住人側で選ぶことができた時代では、体面としては無作為な選定を装っていたものの、クジラへの信仰心が失われるにつれ次第に基準が作為的になってゆき、犯罪者の子供・障害児・孤児を優先して差し出すということがまかり通るようになっていた。それでも足りなくなると、余命の短い子供や生きる気力を失っている子供たちを自発的に志願させるようになった。

 しかしクジラが求めていたのは、身体的に満足で霊的にも強く輝く魂だった。いつしかこの供物の傾向は、一部ではあるが当事者の子供たち自身も察するところとなり、神のようなものとはいえ巨大な生き物のエサになることに恐怖を感じない者もおらず、絶望した子供たちの魂は淀んでいった。そうしてクジラが求める質に足りないものが差し出されているうち、痺れを切らしたクジラは大空を飛び、自らの鳴き声で自らの意思で子供たちの魂を天使に変え、呼び寄せるようになった。それも一人ではなく、時には四人も五人もいっぺんに。

 そもそも満月のたびに一人というのは、かつてこのまちの人口が少なかった頃の取り決めの名残であり、むしろクジラはずっと譲歩していた状態にあったのだ。そこをクジラの好きにさせる口実を与えてしまったのは、不義理を働いた人間の落ち度に他ならない。現在のこの街の人口政策は純然たる少子化対策だったが、昔から細々と行われてきたそれらのルーツをずっと辿れば、この問題に行き着くのだと言われている。

 ところで、それだけではキリウ君の話ができない。

 キリウ君の話をしよう。それと逆さクジラの話も。

 クジラが連れて行くのはたいてい、色とりどりの思い出を持ち、宝石のように輝く生命を連想させる子供たちだった。そしてある年の十二月、連れて行かれた子供たちの中に『キリウ君』はいた。キリウ君はとびきり高潔だったり優秀だったりするわけではなく、どちらかといえば何のために生きているのかもよく分からないといった類の意志薄弱な少年だった。その反面、生きること自体には極めて強い執着を持った、どろりとした炎のような少年でもあった。

 クジラもそんなところに彼を食べる価値を見出したのだろう。キリウ君は自分がクジラに選ばれたことを理解すると、壮絶なまでにそれを拒んだ。魂の殻を砕くクジラの声を浴びて正気を失いながら暴れ続けた結果、彼は正常な天使化に失敗し、虫のような異様な姿の外骨格の天使に成り果てた。そして呼び込むままにキリウ君を呑み込んだクジラは、腹の中で磨り潰されたキリウ君の魂が放った毒電波に打たれて発狂し、ひっくり返って逆さまになった。

 この時、キリウ君の毒電波はクジラに強力な呪いをかけていた。それはクジラの身体に満ちたキリウ君が抜けていくとき、キリウ君もろともクジラの霊力を大量に流出させ、クジラを苦痛に満ちた死に至らせるという呪いだった。

 何故ただの少年である彼にそのような力があったのか、悪魔の生まれ変わりか何かだったのではないかという説もあるが、そんなことはどうでもいい。それよりそのことに気付いたクジラは、あろうことか取り込んだキリウ君の体の一部から再度キリウ君を生み出し、再びキリウ君を食べることで呪いを遅延させ生き永らえようとしたのだ。

 逆さクジラが大声で鳴くと、飛び散ったキリウ君の粉から、何人もの新たなキリウ君の誕生の因果が地上にばら撒かれる。いずれ天使として収穫するために撒かれた種である彼らは、決まって空色の髪と赤い瞳を持つ、同じ顔と同じ名前の少年だった。彼らは最初からキリウ君であることもあれば、後からキリウ君になることもあった。時には発生した瞬間からすでに適齢期の少年で、数年経ってもそのままだったこともあるという。そして知ってか知らずか、キリウ君たちは皆、生きることに貪欲だった。

 天使になりたくないと思えるくらいの思い出を手に入れたキリウ君から、逆さクジラに食われていく。

 だから今のこの街は、キリウ君たちが思い出を作るための庭だ。クジラへの供物の問題はもはや解決したと言って差支えなかった。クジラは自らが生み出したキリウ君を食い続け、キリウ君たちは持ち前の生命力で勝手に育ち、適当な居場所を見つけてクジラのエサに足る人生を作る。そもそもクジラが逆さまになったのはキリウ君のせいなのだから、何かあるならばキリウ君で勝手に解決すればよい。

 ジパング市の治外法権、キリウ君。逆さクジラの影から出られない彼らは、今日も今日とて生きている。