作成日:

27.アッシーの憂鬱

 平日だというのに夕暮れの山道を呑気な速度で走っている。

 気が付けばずいぶんと日が短くなっていた。年末に向けて仕事のスケジュールも調整してきたのに、自分はわざわざ無理やり有休をとってまでこんなところで何をしているのだ、と暗い目の男は他人事のように思っていた。

『次は鹸野町公園だ。グレて家出してるキリウ君がいる』

 インカムから響くのはキリウ君の声だった。というか、男が運転しているこのバイクの後ろに乗っているキリウ君のものだ。男は胡乱げな顔をしたまま毒づいた。

『グレて家出しているのはお前だろうが』

 それを聞いて後ろのキリウ君があひゃひゃと大きい声で笑ったのが、インカムだけでなくヘルメット越しにも分かった。

 この男は今、先週末に突然自宅に押しかけてきたキリウ君と三日ほど行動を共にしていた。このキリウ君は、偽物のキリウ君を殺しに行くから手伝ってほしいなどと言って、堂々と男を足代わりにして悪びれもしなかった。

 一番不可解なのは――このキリウ君が、かつて男の友達だったキリウ君とそっくりだということだった。

 他人を見下しきっているようなこの男には、大学時代からのつまらない友人たちの他にも、つい数か月前まで友達だったキリウ君がいた。そのキリウ君はこの地域にはよくいる『生産所産』の平凡な少年で、男と出会ったのは彼が夜中に施設から抜け出してうろついていた時のことだった。勉強についていけないだとかで落ち込んでいた彼を、男が気まぐれで元気づけてやったら懐かれてしまったのだ。

 きっかけはどうあれいい大人が思春期の子供とつるんでいるだなんてどうかしているが、実際のところ心に子供の部分が多く残っているこの男にとって、キリウ君は気楽に喋れる便利な友達だった。けれど決定的におかしなことになり始めたのは、そのキリウ君が今年の春先頃に男に奇妙な頼み事をしてきたのがきっかけだった。

 偽物を皆殺しにするから手伝ってほしい、と。

『今日中にあと二人は殺る』

 この三日間だけで五人は殺したと思しき人でなしに相応しい、滅茶苦茶なことをほざくものだった。

『ずいぶんとハイペースだな。また似てるだけの他人を間違えて殺さなきゃいいが』

『殺してねーって』

 手伝うと言っても、キリウ君が男に求めたことはただ足になることだけだった。標的の居場所はどうやってかキリウ君が自分で突き止めてくるし、得物も自分で持ってくる。餓鬼のケンカとはいえ同じ体格の相手を殺すのは大変だろうと思い、もっと即物的なところで手を貸せると言っても「いらねー」と素気無く跳ね除ける。ただただ街で見つけたキリウ君を付け狙い、ほとんど通り魔のように何の情緒も無く殺すだけだ。

 そういった全てが、紙を重ねてなぞったように、今ここにいるキリウ君と以前のキリウ君とはそっくりだったのだ。

 べつに今更情緒のある殺し方をされても困るしな。だから男が今やっていることは、足がバイクであること以外は以前と何も変わらないはずだった。

 なのについ昨晩、これまでとは別の変化を起こしてしまった。キリウ君が標的を殺り損ねて、あわや返り討ちにされかけたように見えたところに、男は思わず横から蹴りを入れて助けてしまったのだ。もちろん蹴飛ばされた標的は予定通りキリウ君の手で殺されたが、これはいったい良くないことかもしれない。

 言い訳ではないが、もともと男はこの件に関しては全て傍観に徹するつもりだったのだ。キリウ君は自分自身が『偽物』ではないことに固執していたが、男からすれば自分の手を汚さずにちょっと面白いものが見られるなら、どちらが死のうが生き残ろうがどうでもよかった。全て暇潰しだったはずだ。ところが現実に、目の前でそのキリウ君自身が一度殺されたところを見たら、情が湧いたというか、次があったらそうならないようにすべきだと柄にも無く思ってしまっていたらしい。

 もっとも別の個体、しかも以前のキリウ君を殺した張本人に対してもその感情が起こったのは、少しトチ狂っているような気がしたけれど。

『あんたさー、俺のこと殺す気だろ』

 インカムからのえらく不躾なそれに、男はバイクを速やかに近くの待避所に止めた。

 あろうことか自分を助けた人間に向かってその言い草は無いだろうと男は思ったが、面倒なので否定しなかった。代わりに、ヘルメットを脱いで後ろを見やってはっきりと言った。

「分かっているなら何故そこから今すぐ消えないんだ。他人をコケにするのもいい加減にしろ」

 キリウ君は男の顔を見上げたまま、自分から訊いたくせに少しぽかんとした顔をしていた。しかしバイクから降りるのを促すように男が肘で小突いても、キリウ君は妙に強い体幹で耐えてその場を動かなかった。

「降りろ」

「やだ」

 客観的に見れば、辺りも暗くなりかけている山道に子供ひとり降ろそうとする男の方が異常者だったが、男に引く気は無かった。なぜなら男は『キリウ君』を化け物だと思っていたからだ。特に目の前にいる、死んだキリウ君の真似をすることで自分の心に入り込んだそいつについては、人間の道理が通じない前提で強く警戒してすらいた。

 何なら今この場で自分の方が殺されるかもしれない、そう思いながらも、しかし男は激しい苛立ちと嫌悪感から更に突っかからずにはいられなかった。

「こんな手口でうまくいくと思っているなら、想像以上に頭の悪いカスだ。そうやってこれまで何人を玩具にしてきたんだ。コピー品を気にせず使っていられるほどオレは馬鹿でも大雑把でもない」

「……なに?」

 さすがにまともなコミュニケーションではありえないほど激しく罵倒されていることに気付いたのか、キリウ君はぎょろっとした双眸を微かに歪めた。男は知らず知らずのうちに自分がひどく冷たい目をしていることにも気付かず続けた。

「これまでお前がそうやって日常的に他の個体に成りすましてきたとして、それを見て本当に安らいだ気持ちになった奴がいたとすれば、よほどの馬鹿かサイコか繊細さの欠片も無いカスだ。そうでなければ皆、お前があまりにも痛々しくて気色悪いから合わせてくれていただけにすぎない」

 男の言葉を聞いて、キリウ君はしばらく黙っていた。しかしすぐに相容れないことを悟ったのか、彼は半眼になって口をへの字に曲げると、低い電子音とともに背中に光の翅を出現させていた。

 あの時見た翅だ、と男は思った。男の友達のキリウ君を、このキリウ君が殺して飛び去って行った時に見た銀色の翅。

 キリウ君は地面に足を着けずに車体の上からそのままふわりと浮かび上がり、オレンジと藍のグラデーションを背に男を見下ろして、外したヘルメットを投げ渡してきた。そして地べたを這いずり回る生き物にも届くようにか、少し張り上げた声で言った。

「手伝ってくれてありがとう。楽しかったよ」

「オレはつまんなかったけどな」

 最後まで子供みたいな罵倒を浴びせられた後、少しだけ子供みたいに笑ったキリウ君は、ヘルメットでぐしゃっとした髪を沈みかけの夕日にきらめかせて、凄い勢いで空の向こうへと飛んで行った。キリウ君が飛び去って行った空を前に立ち尽くしたまま、男はタバコに火を灯したくなったが、駐車場に着いてからにしようと思い直し再びバイクのエンジンをかけた。

 あんなシンプルで速いものがあるくせに、足なんて必要の無いものを求めてわざわざ他人に絡んでくること自体が冷やかし以外の何物でもないのだと、彼は本気で気付いていないのだろうか?