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26.非実在家出少年

 昨日、ついにキリウ君が書き置きをしていなくなった。

『やるだけやってみる 帰れたら帰る』

 挨拶どころか「捜さないでください」すら無しか。傍らには彼自身のIDカードが残されていた。それは彼のためだけのIDカードであり、彼がこの街に存在していた証拠でもあった。

 もちろんジュンがそんなに落ち着いていられるはずもなく、真っ青になって慌てふためいて店名だけを頼りにキリウ君のバイト先へ押しかけたら、彼はつい先日ここを辞めたと店の者から告げられた。

 キリウ君が働いていたのは、小さな駅の裏にある個人経営の個室ビデオ店だった。店主の初老の男はジュンの尋常ではない様子に驚いていたが、兄弟だと名乗ると心配してジュンにキリウ君のことを色々と教えてくれた。いわく、ある日急に店にやってきて雇ってくれと言いだしたのだということ。業種的に逆立ちしても未成年を雇えないのだと断っても諦めずしつこかったが、訳ありかと思い、人助けのつもりで店主が所有している別の店の名義でこっそり雇ったのだということ。働きぶりはごく真面目だったが、雑談をしていると話題が異様に幅広く、一人の人間とは思えないほどだったということ。

「後から聞いたが、あれは何か、おれが死んだ親戚に似てるとかでここに来たらしいんだ。おれはおれで、あれが若いのに珍しく無線免許を持っていたから、単に話が合いそうだと思って雇ったところはある。ただ、ずっと話に一貫性が無くてちぐはぐというか、変な餓鬼だった。昨日と今日で言っていることが違うのもしょっちゅうで、てっきり虚言癖持ちのまずいのを雇ったかとヒヤヒヤしたが、でもなぜか、ひとつも根っからの嘘を言っているようには見えなかったんだよなあ」

 店主の話を聞いていて、ジュンはすぐに直感した。『受信』だ。ここで働いていたキリウ君はジュンの兄だけをエミュレートしたものではなく、恐らくまた他のキリウ君たちも適当にごちゃ混ぜになったものなのだ。

 やっぱりあいつは自分が誰だかすらも曖昧な状態だったんじゃないか。

 

  *  *  *

 

 ここのところずっと眠りが浅かったからか、太陽の光で目がしぱしぱする。

 ジュンは、青いアジサイの庭園をミーちゃんと歩いていた。この庭園のアジサイは、どういう仕組みなのか生花にも関わらず年中咲いているようだった。怖くてたまらない。今日も、作業着姿のカッパがたったひとりでアジサイの手入れをしていた。先程ジュンが訊いたところによると、以前にここで出会った怪しいキリウ君も近頃は顔を出していないそうだ。けれど、誰も連絡先を知らないので確認のしようが無いのだと彼は言っていた。

 捨てられた気分だ。きっとみんなそう思ってる。

 不肖の弟で申し訳ない、とジュンは下を向いた。好意的に捉えれば、キリウ君という超常現象に巻き込みたくないと思ってもらえているらしいことと、不確定でも帰ると言ってくれたことは少し嬉しかった。ジュンは、たぶん自分は彼の気持ちを迷わせてしまったのだろうと思っていた。それがどんなものであるかは知らないけれど。

 昨日、警察から連絡があった。直近のとある事件で殺害された被害者が、ジュンの兄のIDカードを持っていたのだそうだ。そしてその被害者は、さらに別の複数の傷害事件の犯人だったのだという。それだけでもわけがわからないが、ジュンの予想では、その一連の事件に登場する人物は全て『キリウ君』なのではないかと思えた。たまたま繋がったから進展したがこれ以上は捜査も行わないとのことだったので、ジュンはIDカードを受け取って、届けてもらえたことに感謝を述べて帰った。

 何もかもどうでもいいことだ。ジュンの手元に残ったのは二人のキリウ君のIDカードだけ。

 いつか彼らの運命に決着をつけて、帰れたら帰るかもしれないキリウ君は、果たしてその時誰なんだろう。誰でもいいか、キリウ君自身がキリウ君だと思えるものであれば何でも。それはできれば自分の名前すらわからない迷子じゃなければ良い。

 それにしても、キリウ君がいなくなってしまったらユコはさぞ悲しむだろうと恐る恐る電話を入れたら、惜しむ言葉もそこそこになぜかこちらが心配されてしまった。

 さすがにそろそろこの手のショックには慣れっこだ、とジュンは思っていた。キリウ君を失ったのは二度目だし、死体だって三つはこの目で見てきている。ジュンは隣で眉をハの字にしてしょぼくれているミーちゃんの頭に触れた。むくれたようにくっついてくる彼女の背中を撫でながら、ジュンは自分の代わりにそういう顔をしてくれる彼女を愛おしく思っていた。

 ふいに、ミーちゃんが立ち止まってジュンを見上げてきた。ジュンの顔を見つめる彼女は、みるみるうちに大きな目いっぱいに涙を湛えて、無言のままそれをぽろりとこぼした。

 石畳の上で顔を赤くして突っ立ったまま、ガラス玉の瞳が溶け落ちているかのように泣き始めた彼女を、ジュンは少し屈んで抱き止めた。けれど服越しに感じたミーちゃんの体温よりも自分の手が熱くなっていることに気付いた時、ジュンは自分の目からも同じものが流れ出してくるのを止めることができなかった。兄が戻ることはもう二度と無いのだと知った日と同じように。

 ずるりと崩れ落ちたジュンは、いつの間にかミーちゃんの細い腕に頭を抱かれていた。熱くて感覚の無くなった指先が石畳に突き立てられているのも、まばたきも無しにその上にぼたぼたと落ち続ける大粒の涙も、どこか他人事のようにジュンは見下ろしていた。

 誰へともなく、声に出すこともできずに、ジュンは自分を呪いながら叫んだ。

 ぼくたちは、ぼくはどうすればよかったんですか?