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22.淀み

 この日の夕方、ジュンはとあるキリウ君と遭遇していた。もちろんジュンのキリウ君ではない。誰も知らないキリウ君の一人である。人混みに紛れて真っ直ぐにジュンのところへ向かってきたそのキリウ君は、目深に被ったキャスケットの下からジュンの顔を確認した後、まるでそんなことはしていないという素振りで足早にどこかへと去って行った。

 ジュンは彼の目に見覚えがあった。彼自身にではなく、べっとりと粘着質でありながら突き刺すようなその目つきは、以前に人違いで襲われた時に浴びせかけられたものとよく似ていたのだ。その事件以来ジュンはキャップを身に着けるのをやめていたので、灯りの無い夜ならばともかく、日中にまた人違いでトラブルに巻き込まれることは無いだろうと楽観的でいたのだが。

 その夜のことだった。深夜一時過ぎ、寝付けないジュンが台所で湯を沸かしていると玄関の扉が開いて、キリウ君が足音を立てずに入ってきた。いつもの深夜徘徊の帰りだろうと思ってジュンは気に留めなかったが、彼はジャケットを脱がないまま、ミーちゃんを起こさないよう潜めた声でジュンに話しかけてきた。

「魔訶平川の橋の下で死体見つけた」

「何の?」

「キリウ君の」

 しばし押し黙ったジュンは、電気ケトルの湯が沸いた音で我に返った。

「その死体、どうしたの?」

「そのままにしてある」

 それを聞いてジュンはまた少し考え込んだが、すぐに沸いたばかりの湯を保温ポットに移しながら、キリウ君に向かって言った。

「見に行きたい」

「飛んでこう」

 なぜキリウ君は飛んでいくほど遠い場所の、しかも橋の下にある死体を見つけることができたのかジュンは不思議に思ったが、初冬の冷ややかな外気を浴びたらすぐに忘れてしまった。

 

  *  *  *

 

 キリウ君に担がれてジュンが連れて来られたのは自宅からずいぶん離れた場所で、近所の川をずっと下った先にある、埋め立てを繰り返して作られた河口付近の橋梁下だった。そこは街の一部ではあるが人通りは無く、深夜ともなると落ちた影で街灯の光すら入らず、どこまでが護岸でどこからが水面か判らないほどに暗かった。

「うわ……」

 その片隅にスマホのライトが作る光の輪が差し掛かった時、ジュンは思わず呻いた。コンクリートで固められた岸の近くに緩やかな水流の吹き溜まりのようなものが出来ており、そこに引っかかっていた人間の死体は確かにキリウ君のものだったからだ。

 その死体の状態は、冷たい川の水に浸かって半日程度のものとしては妥当なようジュンには思えた。極端ではないぶん、むしろとても見てはいけない色味になっている気がするそれを、ジュンは慎重に覗き込んで観察した。横向きで護岸に引っかかっている彼の黒いタートルネックはどこかからか破れており、よく見るとその彼の身体には幾つかの刺し傷があるようだった。

 ジュンは死体の傷の位置を確かめた後、そばにいたキリウ君の前に立って、利き手で彼の胴体の同じところに手をかざした。キリウ君が、目的は解っているが念のためといった風情でジュンに訊いてきた。

「何してんの」

「キズの高さを調べてる」

 キリウ君はしばらくジュンのその作業を見ていたが、やがて静かに笑って言った。

「ジュン。誰がやったか知りたいんだったら、犯人はキリウ君だよ。この話に出てきたことない、誰も知らないキリウ君だ」

 なぜキリウ君は笑っているのかとジュンは思ったけれど、突っかかるタイミングではない気がしたのでやめておいた。

 再び死体の傍らに屈んで、ジュンはじっと彼を眺めた。

 ジュンがキリウ君の死体を見たのは、これが本当の二度目だった。けれど今回のものは、初めて見た時のものよりはいくらか衝撃が薄かった。たぶん、細かいものから大きいものまで傷や痣は無数にあれど、顔の形自体は崩れていないからだろう。血の気が無くて青白いがあちこち黒ずんでいる、ただの死肉に成り果てたそれは、よく見ると水面から出ている方のまぶたが閉じ切っておらず僅かに開いていた。ジュンは死んだ生き物の目を見たくなくて、いけないと分かっていても手を伸ばして震える指先でそれを閉じた。

「ジュン、今日、こいつに会ってるみたいだけど」

 背後から、立ったままのキリウ君がジュンに声をかけてきた。キリウ君の目はジュンが持っているライトの反射光が更に反射して、この世ならぬ不思議な輝きを持っていた。しかし実際にこの死体の彼と対面していたジュンにとっては自明であったため、この時のジュンはキリウ君の言うことを聞き流して、単に自分の考えを口にした。

「公衆電話から警察に通報して、帰る」

「警察は調べてもくれないって前に怒ってたじゃん」

「こんなとこに放っておかれるよりマシだ」

 ジュンはさらに死体を観察しているうち、死体の首に青いネックストラップが下げられていることに気付いた。この死体はそこそこの距離を流されて来たようで傷だらけだったが、このストラップは重ね着の下に入れられていたため、首から外れず紛失しなかったようだ。

 ジュンはいくらか迷った後キリウ君にライトを持たせて、自分は濁った水でべとべとに汚れたストラップを少しずつ引っ張り出し始めた。どうせ調べられないのだからと開き直っての行動だった。冷たくて生臭い川の水に触れながらの仕事の後、外気に曝されたストラップの先には曇りかけのカードホルダーが下がっており、中身は果たして彼のIDカードだった。

 いや現状では、少なくともジュンの兄のものではない『キリウ君』のIDカードに過ぎない。ジュンは兄のIDの字面を覚えているためそこだけは判別できるが、実際にはここで死んでいる彼本人の物とすら限らないのだった。しかし今その点を疑ってもその先は無いので、ジュンは疑わなかった。

 それにしてもIDカードを首から掛けるのは、痴呆老人以外では極度に忘れっぽい人がやることのようにジュンは思っていた。このキリウ君はそうなのだろうか。こんなに暗くて寒いところで、こんなに冷たいものを触りながらその人となりを考えることは寒気がした。自分まで死体になりそうな感覚に襲われながら、ジュンはどこか助けを求めるように、傍らでジュンの作業を眺めているキリウ君を見上げて尋ねた。

「兄のときはIDカードが持っていかれてたのに、この人は持っていかれてない」

 キリウ君はその場を動かず、すぐに答えた。

「慣れてる奴がやったんだと思う。警察がまともに調べないって知ってたら、むしろIDカードは持って行かない。べつに警察もたいていは見た目でキリウ君ってわかるけど、万が一見た目でわからなくなっちゃってたら、身元が判るまでの間、ヘタしたら大事にされちゃうし」

 ジュンは膝に額を着けるように顔を伏せてしばらく考え込んでいた。

 やがてジュンは、そのまま顔を上げられずに言った。

「どうして、キリウ君同士で殺し合ってるの?」

 キリウ君は少し黙った後、ジュンの隣にしゃがみ込んで、穏やかな声で答えてくれた。

「最後の一人になりたいんだよ」

「なったらどうなんだよ。他のキリウ君を殺してまで」

「最後の一人になれば、殺されなくなるし」

「バカじゃないの」

 心の底からそう吐き捨てたジュンは、キリウ君に背中を小突かれても彼の顔を見られなかった。

「なんでこんなことになんだよ」

「キリウ君ってそういうものだし」

「ふざけんなよ」

 まるで誰かのおもちゃみたいだ、とジュンはなぜか怒っていた。嘆いていた。なんでか分からないがこの街からは逃げられないし、なんでか分からないが逆さクジラとかいうのに食われるし、なんでか分からないが他のキリウ君が殺しに来る。全部どうでもいいけれど、ジュンは今隣にいるキリウ君を失うことが一番怖かった。

「ぼくはキリウ君がクジラに食われるのも、他のキリウ君に殺されるのも嫌だ。キリウ君はそう思わないのか?」

 ジュンが空気の冷たさと神経の昂ぶりとで赤くなった顔を上げて、絞り出すように訊くと、キリウ君はいつかのような半眼でジュンを見て微笑んだ。

「じゃあ、一回試してみるか?」

 そう言ってキリウ君は、冷たい水面に横たわる死体の身体の上に置かれたままのIDカードをそっと爪で押して、淀みの中に沈めた。