噂の死にぞこない、もといブチ切れ女のユコと会った。ジュンはようやく彼女の名前を知りはしたが、複雑な感情があり呼びづらく、いまだに頭の中ではそう呼んでいた。
情報共有目的と言えばそうだったけれど、単純に様子が気になったのもあり、キリウ君経由で連絡先を交換して平日の夕方に喫茶店で待ち合わせたのだ。そうしたらちょうど十分前に会うことができた彼女は、咎浜高校のハーパンにジャージという出で立ちで、普通の学生と縁が無かったジュンは早速少し近寄り難いものを感じてしまった。
「高校生なんですか」
「タメのままでいいよ。私こそ、中学生くらいの人にあんな圧かけて、ダサすぎる」
そう言う彼女も明らかにそれを意識してかぎこちない所作をしており、逆になんだか気が合うかもしれない、とジュンは変な息を吐いた。
広めのテーブルの向かい側に座った彼女は今日も口元に痣があり、更に手だけでなく額にも絆創膏を貼っていた。またケンカかなと思ってジュンがこっそり視界の端で見ていると、彼女が藪から棒に尋ねてきた。
「あの子、いないの? ……ちっちゃい子」
最初、ジュンはキリウ君のことをあの子と呼ばれたのかと思ってぎょっとしたが、顔に出ていたのかすぐに補足が飛んできた。なのでミーちゃんのことを訊かれたのだとは理解したものの、なぜ訊かれたのか解らず、ついつっけんどんに「なんで?」などと訊き返していた。親しいわけでもない人にそんな返し方をしてしまってジュンは嫌な緊張をしたが、彼女は特に気に留めなかったらしく、特有のひっそりとした響きを持った声で曇りなく答えていた。
「いつも一緒にいるのかと思って」
それはだいたいその通りだけれど、改めてそう言われるとなぜかジュンは自分がおかしいヤツのような気がしてきて、小さく肩を竦めた。しかし人形の持ち主の性かミーちゃんに興味を持たれて悪い気はまったくせず、着いてきてもらった方が良かったのかななどという勘違いをし始めてもいた。
こうしていると彼女はそれなりに元気そうでジュンは少し安心したが、心の内はきっと彼女自身にも判らないのだろうと思って黙っていた。メロンソーダをぼんやり見つめる彼女の目には微かな陰があったが、それは彼女の元来のもののようにもジュンには見えた。
「で……キリウ君のことなんだけど」
どちらからともなく切り出したのは、もちろんキリウ君のことだった。
二人の接点は相変わらずキリウ君だけだったが、そのキリウ君は本来は別人のはずで、今は同一人物という何が何だか分からない状態だった。なので友達同士でここにいない友達の話をしているようでもあり、何も知らない互いの家族の話をしているようでもあった。けれど大体何も分からないのに、大体全てが分かるような気がする、そんな狂ったフィーリングが互いにまかり通る不思議な空間でもあった。
やがてジュンが、キリウ君がジパング市から出られないのではないかという問題を彼女に振った時、彼女は少し申し訳無さそうに「物心ついた頃から市外に出た記憶が無い」と答えた。
「ユコは遠くに行きたいって思ったことないの?」
「無い。なんかもう、そういうものだと思ってて」
つまんないヤツって思ったらごめんね、となぜか彼女は謝っていた。
「うち、ちょっと変な家で。私は小さい頃からずっとキリウ君に面倒見てもらってたから、親みたいな兄弟みたいなよくわかんない感じなんだ」
ユコは、自分自身と彼女のキリウ君との関係をそう説明した。ジュンが話を聞く限りでは、彼女と居るときのジュンのキリウ君は完璧に彼女のキリウ君として振る舞っており、話の端々からジュンが知っているキリウ君とは別人であることが確かに感じられ、ジュンを複雑な気持ちにさせた。しかし元々ジュンの兄とユコのキリウ君とはそこそこ性質が近かったためか、書き字が汚いだとか散髪が嫌いだとかどうでもいいところが妙に似通っており、それはそれでまた更にジュンは複雑な気持ちになるのだった。
要するにジュンは、いまだに彼女のところにいる自分のキリウ君に複雑な感情を抱いていた。
「何でもキリウ君が教えてくれたの。もう私の方が年上なのに、ケンカくらいしか私の方が上手なもの無いんだよね」
物騒なことを語る彼女の雰囲気は柔和だったが、ジュンの意識はその言葉の最も奇妙な一点に吸い寄せられていた。
「もう年上、って?」
「なに?」
ジュンを見た彼女の瞳は澄んでおり、何の邪念も無かった。ジュンは気後れして尋ねた。
「年下だったことがあるみたいな言い方だなって」
それを聞いて彼女は目をぱちくりさせた。
「キリウ君がずっと十四歳なんだから、私がそれより下の時はそうなるでしょ」
彼女が言っていることが全く理解できずジュンが固まっていると、彼女は独りでに合点がいったようだった。
「あ……違うんだ。私、てっきり、キリウ君ってみんな歳取らないんだと思ってた」
「なんで? ユコのキリウ君はそうなの?」
「なんでって……うん、面倒見てもらってたって言ったでしょ。最初から今までずっと十四歳だから。親とか兄だと思ってたら、いつの間にか弟って感じになってたから、戸惑うよね」
そんな超常現象を受け入れながらそこは人並みに戸惑うんだな、とジュンは意外な気持ちになった。そしてこの時のジュンは呆気に取られていたせいで、果たしてどちらの――兄のように幼かった頃のあるものと、彼女のところのような永遠の少年と――キリウ君がより『キリウ君』として多数派なのか、という眠れなくなりそうな問題の存在にすぐには気付くことができなかった。もっとも、歳を取らないキリウ君の存在自体についてはジュンも特に疑問を持つことは無かった。
ユコはあまり減っていないままのメロンソーダの上から真っ赤なチェリーを摘まみ上げて、溶け切ったバニラアイスに塗れたそれを見つめながら呟いた。
「今思うとキリウ君は、自分がいなくなっても私が困らないようにしてくれてた気がする」
「いなくなると思ってた?」
「わかんない。でもずっと、早く独り立ちしたいって思ってた。キリウ君も時々頼りないとこあったし、なんか、私が守らなきゃってすら思ってた。変だよね」
彼女の目が、チェリーの赤とジュンの瞳の赤とを見比べたようだった。彼女の言葉を聞いてジュンは、彼女のキリウ君は恐らく逆さクジラのことを知っていたのだろうと推測した。そして、知らなかったからこそジュンを甘やかしていたであろう兄のことを考えて、寂しくなるだけだと気付いてすぐにやめた。
いったい自分が求めているキリウ君とは何なのか、そもそもキリウ君とは何なのか、ジュンは分からなくなってきた。
「先週の水曜、キリウ君と会ってました?」
疲れからタメ口が抜けたジュンに訊かれて、彼女はごく僅かに眉根を寄せた。
「ちょっとだけ。ごめん、迷惑だった?」
「そんなことないです」
「私が元気な時で、テキトーに来てもらってる感じだよ」
ジュンには彼女が言外に、しんどい時に会うと寂しくなって辛いからと言っているような気がした。それはジュンが無意識に仲間を求めているからそう聞こえただけなのかもしれなかった。そのくせ自分は彼女に露骨な罪悪感を抱かせてしまうような態度を取っていたのではないかと、内心の迷路に入りかけているジュンに、知ってか知らずか彼女が訊いてきた。
「あなたは毎日一緒にいるの?」
ジュンは正直に答えた。
「家にいる時間だけだけど、べったりっすよ。キモいくらい。兄が生きてた頃より一緒に居る気がする」
彼女は意外そうに顎を上げたが、それはどちらかといえばジュンの言葉の後半に対して向けられたもののようだった。
もともと自分たちの兄弟仲は良くも悪くもなかった、とジュンは思っていた。しかしだからといって、失って初めて気付いたというわけではないとも思っていた。今は昔あった照れのようなものが無くなって、ただ仲の良い友達のようにいられたらとだけ思っているつもりだった。
こうして、また手に入れたような気になって。また失くしたいのだろうか。彼女の姿を見ていて、ジュンはふと、自分自身に対してそう思った。
「あなた、元気?」
唐突な問いかけにジュンが顔を上げると、ユコは頬杖をついて、笑ってるのかそうでないのか判らない程度のごく薄い微笑を浮かべていた。意図が分からないまま、なんとなくジュンが無言で頷くと、彼女は少し目を逸らして「よかった」と言った。
彼女が何を考えているのかジュンには解らなかったが、きっと彼女にもジュンが何を考えているのかは解らないだろうとジュンは思っていた。そうであってほしかった。それは望ましいことで、ジュンは微かに動揺したのを隠したくて呟いた。
「元気って、そっちこそ……また、ケガしてるし」
「えっ」
「なんで? なんでケガするの」
彼女は流れ弾を食ったような顔をしていた。そしてまた、今思い出したかのように額の絆創膏に指で触れると、いくらかの間の後にジュンに釘を刺すように言った。
「ケンカだけど。あの、私から吹っ掛けたわけじゃないからね。先輩がちょっと」
「なんでそんな……どうして」
ああ、どうかみんなが幸せになれますように。