十一月某日。
風が無く、大粒の雨が降る日だった。外出から戻ってきたジュンが、部屋の中にキリウ君の姿が無いことに気づいてミーちゃんに尋ねると、ベランダにいるとのことだった。そしてこんな雨の日に何をしているのかと見に行ったジュンは、窓を開けた瞬間ぎょっとした。キリウ君がベランダの端に座り込んで、タバコを吸っていたからだ。
とはいえジュンは彼がタバコを手に持っているのを見てそう思ったが、本人の言い分では、どうやら吸っているわけではいなかったらしい。ただ火をつけてそれを見ていたのだそうだ。
「嘘つけ」
「ほんとだよ」
なんか急に煙のにおいが嗅ぎたくなって、と言うキリウ君は気まずそうに肩を竦めていたが、ジュンには全く信じ難かった。タバコは菓子などよりもずっと高価で、ジュンの感覚からすれば高級品だ。それにいくら咎浜でも未成年にタバコを売るはずがなくジュンが入手経路を勘繰っていると、キリウ君はジュンの薮睨みに屈したのか、あるいは元々話すつもりだったのか、ひとまず白状してくれた。
「バイトの先輩に無理言って買ってもらったんだよ。初めてだよ」
「なんでもいいから早く消せよそれ。タバコ嫌い……、ベランダで吸うのもバカ、煙が流れて周りの家に迷惑かかるだろ」
珍しくジュンが嫌悪感を露わにして怒ったためか、キリウ君は少し面食らった様子で、持っていた空き缶に火のついたままのタバコをねじ込んでいた。彼が驚いたのは当然だろう、なぜならジュンがタバコを嫌がる素振りを世界に晒したのはこれが初めてだったからだ。これはいくら超常現象じみた彼でも知りようが無いことだった。（非行に走っている時点でどーでもいいことではあるが、仮に知っていたらキリウ君はやめてくれていたのではないかという甘えのようなものは、確実にジュンの中に存在していた。）
ジュンは更にタバコの吸い殻が入った缶を見咎めて、この後どうやって捨てるかキリウ君はちゃんと考えてるのだろうかと訝ったが、それ以上突っ込む気は起きなかった。キリウ君は完全に閉口しており、雨の湿気のせいか煙に燻された髪の毛までがへちょっと潰れていて、なんだかすごくしょげ返っているように見えた。そんなのを見ているうちにジュンは、彼自らの非行にも関わらず罪悪感が湧いてきて、少し冷静にわけを聞こうと向き直った。
「なんで急にタバコなんか？」
キリウ君は黙ったままあれこれ考えていたようだったが、やがてものすごく言いづらそうに口を開いた。
「なんか俺……たぶん、他のキリウ君、受信したっぽくて」
聴き慣れてはいるが凡そこのシチュエーションで出てくるとは思えない単語に、ジュンは思わず訊き返した。
「受信？」
「ほんとに、急に煙のにおいが懐かしくなって……信じてくれないかもしれないけど、ほんとに俺じゃなくて。いなくなったどこかのキリウ君が考えてたこと、思い出したんだと思う……」
キリウ君は両手の指で自分の頭を指して、妙に真に迫った様子で一生懸命それを説明しようとしていたが、どうにもうまく言葉が出てこないらしい。情報を左から右に正しく伝えるというコミュニケーション能力の本来の領分に関しては、ジュンとキリウ君とは共に課題が多かった。そしてジュンはキリウ君がそんなくだらないことで嘘をつく奴ではないと思っているので、彼の言い分を疑いはしなかったが、その内容と是非自体には素直に疑問を抱いていた。
仮に彼が言う通りに他のキリウ君を『受信』したのだとしても、実際に行動を起こすには手間も金も時間もかかるはずだ。衝動でできることではないし、他人も巻き込んでいるので尚更そのはずだった。そのどこかしらで本当に一瞬でも思い留まれないものなのだろうかと、ジュンは訝る態度を緩められず、何か声をかけようとしても口から出てきたのは冷ややかな言葉だった。
「信じるけど、でも他人のせいかよ」
「ごめん」
意地悪したいわけじゃないのにな。
ジュンはその場に屈み込んで、同じ目の高さでキリウ君を見て呟いた。
「ずーっと思ってたけどさ。キリウ君って、ちょっと変だよな」
だいたい半透明になったり、空飛んだり、いとも簡単に兄に成り代わったり。思い返せば思い返すほど、最初から彼にはぜんぜん人間らしいところが無いのだった。そういう彼と当たり前のように暮らしてきたジュンもジュンだが、なぜか今更になって、そんなことを考えるようになってしまっていた。一方、当のキリウ君はジュンが話を聞く気があると分かると少し気力を取り戻したのか、口早に答えていた。
「俺、キリウ君ってみんな受信するんだと思ってた。でも最近気付いたけど、いなくなったキリウ君のこと、普通はこんなに思い出さないっぽい」
それはジュンも薄々思っていたことだったので特に意外性は無かったが、キリウ君はそれをジュンに伝えられただけで幾分か安心したようだった。
「普通って何さ」
「キリウ君的にだよ。夢の中でたまに喋るんだ、他のキリウ君と……。受信しやすいから俺、すぐ自分わかんなくなるのかなって。あんまりわかんなくなると、ジュンと会った時みたいに、スカスカになる」
「スカスカだとどうなるの？」
「どうにも……ならないけど」
聞けば聞くほどキリウ君の話は要領を得なくて、ジュンは黒っぽい砂で汚れたコンクリートの床に目を落とした。しかし話がよくわからないのは相変わらずでも、最近のキリウ君は少し変わったようにジュンは感じていた。何と言えばいいのか、以前と比べて少しずつ自分自身のことを話してくれるようになった気がするのだ。
それともそれは、ジュンの方から訊くようになったからなのかもしれないが。
「受信、か」
ジュンが独りごちると、キリウ君はなぜか訂正するように「俺が勝手にそう言ってるだけだよ」と口を出してきた。
非実在電波少年、という何処かで見た独特の単語を思い出して、ジュンは目を伏せて笑った。何のことやらと思っていたがこうしてみると案外的を射た呼称のようで、これを考えた人の傍にいたキリウ君もこんな感じだったのかもな、とジュンは思った。
「じゃあさ、送信もしてみればいいじゃん」
冗談じみて提案したジュンを見て、キリウ君がきょとんとしたのが分かった。
「何を、どこに？」
「元締めに。キリウ君の元締め」
ジュンは自分で言っていて面白くなってしまって、くすくす笑って続けた。
「なんかこう、無いのか？ キリウ君が普通の人になる方法。抜けさせてって頼んでみなよ元締めに……電波飛ばして」
「やだよ。そんなの通ったら俺、キリウ君じゃなくなるし。他のキリウ君のこともわかんなくなるし」
「それでいいじゃん」
キリウ君は少し驚いた風に目をぱちくりして、ジュンと同じ色の真っ赤な瞳でジュンをじっと見てきた。その様子にジュンは自分がおかしなことを言った気になってきて、ぷいっと顔を逸らして立ち上がると、何も言わずに部屋の中に戻った。
生暖かい風とタバコの煙の名残を感じて窓を閉めながら、ジュンはふと思った。キリウ君に会いたい、と。近くにいるはずなのに、心のどこかで再び彼を捜していた。