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2.ドッペルゲンガー

 八月の初頭、事業所の作業が半ドンだったので、ジュンはミーちゃんを連れて図書館で新聞記事を漁っていた。あの日のことが載っていないか調べていたのだ。けれどぜんぜん見つからなくて、首を傾げながら出てきたときのことだった。

 西日が差し込むエントランスで、ジュンは兄とそっくりな少年とすれ違った。その横顔も背格好もひどく恋しくて、思わず追いかけて名前を呼んでいた。

「キリウ君?」

 胡乱げにそう繰り返した彼は、虫のような目でジュンをじっと見たのち無言で頷いた。

 意味のある言葉が出ずに大声を上げかけたジュンは、彼に腕を掴まれて図書館の外へ連れ出された。図書館で騒ぐのは良くないので当然だ、取り乱してしまって申し訳ないと内心ではジュンも思っていたが、態度には全く出てこなかった。悪い夢を見ているような顔をしているジュンに向かって、ため息まじりに『キリウ君』が言った。

「あんたさ、キリウ君見たことないの?」

 彼は気狂いを見る目つきをしていた。何を言われたのか解らず、ジュンは頭に血が上ったまま口走った。

「キリウ君はぼくの兄だ。いっしょに住んでた」

「そーじゃなくてさ」

 やや気の進まない、しかし他人の無知を放っておくのも癪だといった様子でキリウ君が語ったのは、要約すると次の通りだった。

 

 キリウ君と呼ばれる、空色の髪に赤い瞳をもつ少年はこの街に何人もいる。いったい全部で何人、何十人、累計で何百人のキリウ君が存在していたのかは定かでない。なんなら日常的に一人や二人くらいは死んでおり、やはり全員が同じ特徴を持つ少年である。昔からずっとそうだし、これからもたぶんずっとそうだろう。

 

 そして目の前の『キリウ君』は、その集団のひとりである自覚が比較的強いと自称するキリウ君だった。

「あんたがピンとこないってことは、あんたの兄はこのことに気づいてなかったのかな」

 気づいててあんたに言わなかっただけかもしんないけど――。ぼそっと付け足した彼は、ジュンと目を合わせず、鞄に入れずに抱えたままの本を手持ち無沙汰そうに何度も撫で回していた。

 図書館ですれ違ったということは返却しに行こうとしていたのだろう、表紙からするとそれは学生向けの世界史の解説本だった。本の趣味は似ても似つかないが、ジュンはどこか彼の話をそっちのけにして、彼の落ち着きのない仕草に兄と似たところを見出してしまっていた。そんなジュンの怪しい視線をどう受け取ったのか、彼はわかりやすい仕草でそれを避けると、わずかに強い語気になって言った。

「なんだよ。そーゆーものなんだから仕方ないんだってば。ほら、『ドッペルゲンガー』って与太話あるじゃん? 同じヤツがいるのって、昔からよくあることなんだろ。俺もあんまり気にしてないし。べつに自分と同じようなヤツがいるからって不安になんかならないし。よくあることだし」

 よくあってたまるか、とジュンは痛みだしたこめかみに手をやった。

 再び、悪い夢かと思っていた。ジュンは昔から、ぺらぺらと喋るキリウ君を見ていると頭が痛くなる。兄のキリウ君はある種の口下手で、喋れば喋るほど変な電波に頭をやられた人のようになる悪癖があった。そんなところまで微妙に似てなくていい、とジュンは思った。

 だいいち、キリウ君は生まれた時からジュンの兄なのだ。そんなたくさんの粘菌みたいな存在のひとつだとしても、ジュンにとってはたった一人の兄だった。だからこんなところに彼がいるはずがない。本を抱えたままの腕を組んで煩わしげに俯いている、その些細な仕草も表情も、なまじ似てるからパチモンくさい。

 ふらつき気味に一歩引いたジュンを視界の端で捉えて、彼がようやく顔を上げた。

「あんた大丈夫?」

 怪訝そうに覗き込んできたキリウ君がかざした手が、ジュンの顔の前でひらひらと揺らされた。ジュンは遠くなりかけの意識でそれを眺めていたが、ふいにパッと手を伸ばしてその手首を掴んだ。

 キリウ君のバチッとした目がジュンを見た。何か言われる前にジュンの口が開いていた。

「あんたって言うのやめろ」

 自分でもどこから出してるのかわからないくらい、底冷えのする声だった。その瞬間、強い警戒心に歪んだキリウ君の顔があまりにも見慣れなくて、ジュンは思わず笑ってしまった。振り解かれるよりも早くジュンは彼の腕を放って一歩詰め寄ると、ほとんど飛びかかるように両手を彼の首にかけていた。

 この時のジュンは本当に狂っていた。目の前にいる、兄と同じ姿形をしたものに対する拒否反応は、ジュン自身が認識できる以上に強烈で狂おしくて耐え難かった。

 目の前から消したくなった。その気持ちは言い訳のしようも無かった。仮にこの世界に幾千のキリウ君がいるとして、なまじ初めて目撃した兄ではない彼の性質が、兄とそこそこ似通っていたことも一因だったのかもしれなかった。ジュンにとっては、兄とほんの少し違って見えるそいつが、不気味で不気味で仕方がなかった。

 力を込めた瞬間、けれどすぐに飛んできた彼の拳が顎にヒットしてジュンはその場に崩れ落ちた。どちらに対してかどちらに対してもか、ミーちゃんが小さな悲鳴をあげてジュンに駆け寄り、キリウ君から距離を取るように引っ張って助け起こそうとする。

 一方で飛び退いたキリウ君は、ジュンのしたことを確かめるように自分自身の首に触れていた。微かに怯えた目は、もうジュンを見ることは無かった。それからすぐに彼は、取り落とした本を素早く拾い上げて鞄にしまうと、図書館とは反対の方向に駆け出して行った。

「ふざけんなキチガイ!!」

 怒鳴りながらのすてぜりふ。同じだけど同じじゃない――兄と同じ声で、百パーセントの敵意を込めて、焼かれたような胸の痛み。