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19.神隠しに靴を隠される

 二日後、確かにキリウ君はひょっこり帰ってきた。いなくなった日と全く同じ出で立ちで。

 いったい何があったのか、ようやっと帰り着いた彼があまりにも心身を消耗しているように見えたので、ジュンはわけを訊くよりも先に彼を休ませたかったのだ。しかし当の彼はハイになっているのか目をギラギラと輝かせて、とにかく説明するからと言って聞かず、ひとまずジュンは温かい茶を出して話を聞く羽目になった。

 空気を読まずにミーちゃんが茶菓子を並べ始めたのを気にも留めず、キリウ君は深刻そうな顔をして打ち明けた。

「俺、この街から出らんないのかもしれない」

 突拍子もないはずのそのイメージを、ジュンはつい最近どこかで得ていた気がした。

「なんていうか――ジュン?」

「それ……思ってたんだよ。ぼく」

「なに?」

「キリウ君って、ジパング市の土着の怪異か何かじゃないかって」

 ふはっ、とキリウ君の口から息とともに笑いがこぼれた。それは前に引っ越しの話をした時にジュンが考えていた与太話だった。ジュンは顔を覆った手を降ろして、折った話の腰を戻すために改めて尋ねた。

「何があったの?」

「実は俺もよく解ってない」

「だめじゃん」この反応は冷たかったかな。

「ただ……」

 キリウ君は少し困った様子で、自分が遭遇した出来事をどう説明すべきか迷っているようだった。彼はまだ熱いマグカップのふちを指先でぺたぺた触りながら、その水面に目を落として、恐らく彼が見たままを簡潔に語った。

「気が付いたら急に、知らない街の真ん中に立ってたんだ。誰もいなくて電気もついてなくて、月明りしか無かった。慌ててジュンとミーちゃんを探してたら、いつの間にか頭の上を逆さクジラが飛んでた」

 それを聞いてジュンは、以前に逆さクジラを見た夜のことを思い出して怖気がした。キリウ君が言っていることが本当だとすれば、ジュンがキリウ君に電話をかけようとした時に聴こえた異音は、そいつが放っていたものなのかもしれない。確証があったわけではないが、ジュンはそう思い込むことで説明のつかないものを一つでも減らしておくことにした。

 実際、説明のつかないものが多すぎるのだ。隣でミーちゃんが栗饅頭をかじりながら議事録を取ってくれているが、果たしてどれだけ散らかることやら。

「俺、ここまでずっと空飛んできたんだ。帰らなきゃって。そしたらまた、気が付いたら市内に戻ってきてた」

 興奮に伴う血の巡りが収まってきた彼の瞳は、疲れのせいか次第にいつか見たような薄ぼんやりした色に戻りつつあった。ジュンは彼を労わるつもりで、素直な気持ちで呟いた。

「なんでも構わないや。戻ってこれてよかった」

 そのまま二人、生ぬるい無言の時間が流れていた。

 しかし少しの後、ジュンはふとミーちゃんの議事録に目をやって、不自然な点があることに気付いて首を傾げた。

「……でも、変じゃない? ぼく、去年にも兄と一緒に同じとこに行ったはずなのに。その時はべつにこんなこと無かったよ」

 すると意外なことに、キリウ君はそれだけの説明ではっきりと頷いて「そのことなんだけどさ」と続けた。

「俺、いや、この人って、自分のことを『キリウ君』だと思ってなかったんだよ」

 この時キリウ君は、自分の胸に手を当てて緊張した面持ちでまっすぐにジュンを見つめていた。それは出来る限り真摯にこの話、ジュンの兄の話をしようという彼の気持ちの表れなのかもしれなかった。

「個人としての話じゃなくて。たくさんいるキリウ君の一人だって自覚、本当にぜんぜん無かった。だってジュンがいたから。たぶんね、たぶんだけど、キリウ君がどうとか気にしてるヒマが無いくらい、彼はキリウ君である以前にジュンの兄だったから」

 ジュンは呆けたように彼の話を聞いていたが、すぐに我に返って頭を振った。

「それが、この街から出られないことと関係あるのか?」

「あると思う。俺も、今の俺になる前に、自分が誰だかも判んないでフラフラ空飛んでたことある。その時にかなり遠くまで流されて行ってるはずなのに、でもこんな風にはならなかった。出られないのはきっと『キリウ君』だけなんだと思う」

 急にキリウ君自身の話をされたことにひどく驚いたはずのジュンは、そのことに気付くまでにかなりのタイムラグがあったため、反応しそびれてしまった。そしてキリウ君は確信じみた口調で話しているもののジュンはやはり納得がいかず、ついに全てを投げ出すように項垂れてしまって、ぼやいた。

「わけわかんねーよ」

「だから、土着のバケモンだってジュンも言ったじゃん」

「バケモノなんて言ってない。それに、だとしたら、この街っていったい何なんだよ」

 逆さクジラがどうとか、たくさんいるキリウ君がどうとか。街から出られないだとか。キリウ君が死んでも警察が調べないだとか。一度気になってしまうと、そもそも同じ顔と名前を持つ人間が何十人もいるくせによく問題にならないものだなとか、あんまり考えない方がいいことをジュンは考え始めていた。

 けれど何より考えない方がいいことが、更に別に存在していた。

 それはキリウ君が土着のバケモノで、多かれ少なかれ集団としての意識があるのが一般的だとして、その先で彼らが今後どうなっていくのかということに関わる話だった。彼らはどこから来てどこへ消えていくのか。逆さクジラとは別の次元で、彼らの中にも存在するかもしれないとあるロジックが、今のジュンは無性に気になってしまっていた。

 それにまつわる、ジュンの頭にこびりついて消えない言葉が一つだけある。

『お前は信じるか? こいつがこの世で最後のキリウ君になった時、こいつこそがキリウ君として実在できるのだと言ったら』

 悪夢の中で聞いた凶人の妄想だと思っていたそれが、今は兄の影を踏み、ジュンの心をじわりと苛んでいる。

「――あのさ。ぼくの兄を殺したのって、やっぱりどこかの別のキリウ君なの?」

 つい、キリウ君が答えを知り得るかも判らないのに、そんなことを訊いてしまっていた。果たしてキリウ君は無言で頷いて、ジュンは静かに溜息を吐いた。