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18.非実在電波少年キリウ君が見つからない

 それで終わればどれほど良かったことか。――海の話がだ。

 帰るまでが遠足とはよく言ったものだ、とジュンは思った。黒っぽい砂を蹴飛ばして、今日は向こうの端まで行こうぜと揚揚としていたのはキリウ君だった。大はしゃぎで砂まみれの海藻を引き摺り回していたのもキリウ君だった。なのに今、ジュンが波に揉まれてできた擦りガラスの欠片を拾い上げて再び前を向いた時、そこにいたはずのキリウ君は忽然と消え失せていた。

 ジュンは、彼が海に飛び込んだだとか波に攫われただとかは全く想像しなかった。なぜなら彼が立っていたのは身を隠す余地が一分も無い砂浜の真ん中だったからだ。万に一つ、地面が陥没した可能性も考えて周囲を確認したが、もちろんそのような形跡は無かった。

 さあ彼はいったいどこへ消えてしまったのだろう。靴も残さずに。空でも飛んで逃げた?

「キリウちゃん?」

 目が据わってしまって一言も発しないジュンとは対照的に、ミーちゃんがきょろきょろと辺りを見回しながら彼の名前を呼んでいたが、やはり彼の返事は無かった。それを見届けてジュンは、ミーちゃんの手から自分のスマホを抜き取ってキリウ君に電話をかけ始めた。案の定電話が繋がることはなく、しばらくしてブツリと切れただけだった。

 僅かに逡巡したのち、ジュンはミーちゃんにダウジングをお願いすることに決めた。ジュンがダウジングを指示すると、彼女はとても意気込んで、ポシェットからざらりとペンデュラムを引っ張り出して儀式を開始した。

 人形のミーちゃんには茶話の相手や占いといった優れた機能が搭載されているが、中でもダウジングを用いた探し物機能は、それだけで売り出さないのが不思議なほどの高い精度を持っているようジュンは思っていた。製造者いわく、実際のところダウザーとしての性能は(他の全ての性能と同様に)人形によって個体差があり、オーナーの遊び方次第で伸びることも伸びないこともあるらしかった。

 今、ミーちゃんが垂らしたペンデュラムは真下を指したまま、その場でくるくると一定の速度でドリルのように軸に沿って回り続けていた。三次元の動き以外の出力を持たないペンデュラムであらゆる状態を表すことは難しい。ジュンは集中している彼女にそっと尋ねた。

「この反応は……?」

「む~~」

 ミーちゃんは珍しく眉間に皺を寄せて、目を伏せたままいかにも強く念じるようなポーズをとっていた。布が多くひらひらとした今日の彼女の装いには、それがやたらと様になっていた。しかしやがて彼女は少し肩を落として呟いた。

「いるんだけど、わかんないの」

 少なくとも『いる』、のか。

 そう思ったジュンが思い出していたのは、最も嫌な記憶だった。それは兄が行方をくらました時の記憶だった。いったい兄はどこをほっつき歩いているのかと思い、あの時もジュンはミーちゃんにダウジングを頼んだのだ。当初のジュンは、無断外泊の前科がある兄のことをさほど心配はしておらず、単純にどの方面に居るのか知りたいと思っていただけだった。しかしそのダウジングの結果は『いない』だった。何度やっても『いない』だった。『いない』とはどういうことだと彼女に訊いても、彼女は泣きそうな顔で『いない』のだと繰り返した。

 それが暗に示していることを当時のジュンは受け入れず、口先ではミーちゃんの第六感の不調だろうと切って捨てていた。その実、もともと不安定な精神のどこかで彼女を妄信していたきらいのあったジュンは、内心ではそのことを半ば確信してしまってもいた。そうして、既にこの世にはいないであろう兄をそうと知りながら死に物狂いで探し続けた二週間は、ジュンの心をぼろぼろにするには十分すぎる時間だった。

「じゃあ、キリウ君のスマホは探せる?」

 ジュンが尋ねると、ミーちゃんは口を半開きにしたまま少し考えていたが、すぐに無言でそれを実行した。相変わらずペンデュラムの先端は有機的な方向を指し示すことは無く、結果は全く同じだった。これが正しいとすれば、少なくともキリウ君はスマホを持ったまま消えたようだ。

 ジュンには――実は、本人ではなく身体の一部や持ち物を指定していれば兄の死体もすぐに見つけられていたはずだという事実に後から気づいてしまい、それによって更に落ち込んでいたという馬鹿みたいな時期も存在した。あの頃、兄の抜け殻が残った家でジュンはミーちゃんのスイッチすらも切ってしまっていた。決して彼女に罪は無いのに、彼女にダウジングを頼んだことに端を発した一連の恐怖が頭から離れなかったせいだ。ひとりきりで沈んでいたらもっと悪くなると解っていたにも関わらず、ひとりになりたいだなんて選択をして、そして案の定そうなっていた。

 でも、今はそうではない。それに今日ミーちゃんにダウジングを頼んだとき、またキリウ君が見つからなかったらという恐怖はあったけれど、だからといってジュンにそれをしない選択肢は無かった。

 ジュンは再びキリウ君に電話をかけた。やはり繋がる気配は無く、呼び出し音も鳴らないまま電話は切れた。

 更にもう一度電話をかけた。同様に呼び出し音は鳴らなかった。しかし今度はスピーカーの向こうから異音が聴こえ始めて、ジュンは首をひねった。

 最初、その音はジュンの耳にはドアの軋む音や牛や羊といった獣の鳴き声のように聴こえていた。しばらく聴いていると、それは徐々に長く複雑な弦楽器の音のような響きに変化してゆき、ふいに直感からジュンが耳からスマホを遠ざけた直後、スピーカーからは割れんばかりの大音量でそれが放たれていた。

 五秒ほど続いた後、唐突に電話は切れたが、スマホを握り締めているジュンの指が痺れていたのは爆音による振動だけのせいではないだろう。

 いまの電話はどこかへ繋がっていたのか? キリウ君はそこに居たのだろうか? 警告音のように鳴り響く心臓は痛みすら持ち始めていたが、不思議とジュンはそれほど恐怖を感じておらず、むしろなぜか怒りが湧き始めていた。今の電話を聴いて、どういうわけかジュンははっきりと感じたのだ。キリウ君は自分から姿をくらましたのではなく誰かに隠されたのだと――根拠も無く確信したその時だった。

 スマホの着信音が鳴り響き、ジュンが思わず取り落としたそれをミーちゃんがキャッチした。彼女が差し出してきた画面にはキリウ君の名前が表示されており、我に返ったジュンは飛び付くようにそれを取った。

『ジュン?』

 その声を聴いた瞬間、ジュンを一時的に支えていた攻撃的な感情が、底が抜けたように一気に流れ落ちていた。

「キリウ君……?」

『あ、電波届いてる』

 まるで迷子になったのはこちらの方なのかと錯覚するほどに、この時のキリウ君は安心した優しげな声色をしていた。そのまま彼は申し訳なさそうに続けた。

『ごめん。だめだった』

「だめって何? キリウ君、今どこにいるの?」

 何がだめなのか、なぜ謝るのかも分からずジュンが困惑して尋ねると、電波の向こうでキリウ君は『あー』と意味の無い声を発した。少しの間があって、彼は形容し難そうに答えた。

『わかんない。なんか、夜のとこにいる。帰ったら説明する』

「夜?」

 ジュンは思わず空を仰いだ。隣でミーちゃんもつられて同じ動きをしたのが分かった。

 見上げた空はまだ明るく白い光で満たされており、昼下がりの範疇を出ていないと言えるものだった。先程からキリウ君の言っていることが全く理解できず、不安を覚え始めたジュンはつい彼をせっつくようにしてしまった。

「キリウ君、大丈夫? 帰ってこられる?」

『たぶん……できるだけ速く帰るから』

「たぶんって何? どこにいるの? ケガとかしてるの?」

『してない。ただ、飛んでると電波が届かない』

「電波? そこ、ぼくが探しに行けるところ?」

 また少しの間があった。それから微かにキリウ君は怒気の籠もった声になって、ジュンに釘を刺すように強めの口調で言った。

『何日かかかるかもだけど、すぐ帰るから待ってて。捜しに来んなよ。それじゃね』

「帰ってこいよ! 早く!!」

 一方的に切られた電話を片手に、しかしジュンはもはやそれほど強い感情の揺らぎを感じてはいなかった。ジュンは通話中にミーちゃんにジェスチャーで指示していたダウジングの結果を確認し、やはりキリウ君がこの世ならぬ何処かに居ることをただ受け止めた。ならばジュンに出来るのは、彼が言う通り大人しく信じて待っていることだけなのだろう。

 腹立たしいけれど仕方がないことなのだとジュンは割り切りつつあった。これからもキリウ君と一緒にいるためにはそれが必要なのだと、ようやく覚悟し始めてもいた。とはいえそれは、たびたび奇行を繰り返していた兄と一緒に暮らし始めた頃に、一度はした覚悟だったような気もしていた。