近頃の酷い自己嫌悪から逃れるためにまたアホみたいに事業所の仕事を入れていたら、とうとう管理者にも叱られてしまい、半強制的に休まされてしまった。けれどじっとしているのも辛くて外出しようとしたら、ミーちゃんとキリウ君がとてとて寄ってきて、ミーちゃんが「海が見たい」と鳴いた。
だから皆で秋の海に行くことになった。泳ぎたいわけではなく、単に水平線を眺めながら砂浜を散歩しようというプランだ。と言ってもジパング市の海辺は埋立地が主で、近寄ると臭いような類のものばかりなので、電車で隣の市の端っこまで行くことにした。
さて、目的地となる小さくまとまった駅で電車を降りた時、ジュンは歩道の真ん中で奇妙なものを見つけた。この周辺の公共物は看板からベンチまで無秩序にタギングされていたが、その街灯の支柱には、それらの上から更に見覚えのある紙が貼り付けられていたのだ。
『非実在電波少年キリウ君を捜しています』
その張り紙は今やジパング市中のあちこちで見かけるようになっており、誰もが見過ごす風景の一部として上から落書きまでされているのが茶飯事となっていた。しかしまさか市外にまで貼られているとは知らなかったジュンは、馴染みの無い電車に乗ってようやく湧き始めていた行楽気分を若干挫かれたような気になった。
キリウ君……。
半身。ジュンは兄と、二回だけこの海辺の街に来たことがあった。旅行と言うには近すぎて、散歩と言うには遠いそれは、駅で降りて海の端に向かって目についた適当な道を歩いていくだけの遊び。泳いだことは一度も無い。兄はこの湿った風が吹く石畳の街と黒っぽい砂浜を気に入ったようで、免許取ったら原チャで来たいだとか、楽しそうに言っていた。
今のキリウ君はどうだろう? 彼はどうやら、消えた他のキリウ君の記憶を思い出すことができるという不思議な力を持っていた。実際、こうしてごちゃっとした街道を行きながら盗み見ていると、彼はぼんやり顔をしながら確実にこの道を知っている歩調で、いつかの続きのようにずっとジュンの斜め前を歩いている。キリウ君とは皆そういうものだからと彼は言っているが、さすがにそんなことはないのではとジュンは懐疑的な気持ちだった。
しかしそもそもの話をするならば、キリウ君がこの世界にたくさんいるらしいことと、自分がキリウ君と一緒に生活していることとが、未だにジュンはいまいち結びつけられないままなのだった。現実として目の前に次々とキリウ君が現れたから受け止めただけで、彼らが誰といて何をしていようがジュンには関係無いのだと思っていた。
本当にそう思っていたのだ。ジュンのキリウ君が信じられない『掛け持ち』を始めるまでは。
* * *
素直になることが大切だ。
暗い気持ちの時に重大なことを決めてはいけないと、ジュンはペットショップの店員にも叱られてしまっていた。あのカボチャの味噌汁の数日後の話だ。そんなにキリウ君がハムスター好きならうちでも飼えばいいのだと思って、半ば衝動買いをしようとした時、声をかけた店員からあれこれ家庭環境など詮索されているうちに、兄の気を惹きたいだけだとバレてしまってそうなった。
よほどひどい顔をしていたのだろう。子供が大人面して生きているのが珍しくない街にも関わらず、その時のジュンは生き物を飼うにあたっての責任だとか心構えだとか以前に、自分の面倒もろくに見られないどうしようもない餓鬼だと判断されていた。果たしてそれはその通りだった。
だからジュンは帰宅するなり、キリウ君に「あの子(ユコ)はいいけどこれ以上他の人のキリウ君になるのはやめてくれ」と頭を下げて率直に頼んだ。たぶん街には、逆さクジラに連れて行かれたキリウ君を探している人が他にもいる気がするから。そういう人たちを見かけても絶対に無視してくれと頼まなければならなかった。
「もちろん、クジラに食われるのもダメだから」
「そっちが先だろ」
「ごめん」
それにしても「あの子はいいけど」というのは、ジュン自身にとってもかなり意外な感覚だったと思う。そうなったのは恐らく、ジュンがついに手続き上の必要性無しに兄の死を自分から打ち明けることができたのは、見ず知らずの彼女による脅迫だけだったからだ。それにごく少数ならば、キリウ君にまつわる気持ちを分かち合える知人ができるのは悪いことではないと思っていた。
何より、いずれ彼女のほうから離れていく、というキリウ君の言葉をなぜか信用できたから。
「俺は食われないよ」
逆さクジラに、とキリウ君は付け足した。
どうして、とジュンが尋ねると、キリウ君は無表情で「不味いから」と答えた。
* * *
海辺の街道で、ミーちゃんが楽しそうにジュンのスマホを構えて写真を撮っていた。ミーちゃんはキリウ君が横からそっと画面を覗き込んでいることに気付くと、にこにこ顔で彼にレンズを向けていた。それから慣れた手つきでインカメラに切り替えて、短い腕を伸ばして器用に三人ともが収まる画角を見つけると、さっとシャッターを切っていとも簡単に思い出を作り上げた。
そんな所作のひとつひとつが、花が開いたように可憐だとジュンはしみじみ思っていた。見惚れるのを通り越してもはや感心していた。自分がいったいどんな呆けた顔であの写真に収まっているのかは考えたくもないが、ミーちゃんがそれで良しとした写真ならば、ジュンは全面的に思い出として受け入れるつもりだった。
そういう意味では、自分から写真を撮らない二人の元にミーちゃんがいてくれるのはありがたいことだった。
もっとも、かつてミーちゃんが撮る兄はいつもどこかよそよそしかったようにジュンは記憶していた。
そもそも兄はミーちゃんのことが少し苦手だったのだ。はっきりそう言っていたわけではないけれど、彼はずっとミーちゃんに対して心の壁があり、どう接するべきか迷っていたようジュンには見えていた。――仕方がないことだった。だってミーちゃんはジュンが兄に相談せずに買った人形なのだから。当時のジュンは愚かにも、そんな一丁前に人格と知性が備わったものを連れてこられて簡単に受け入れられる方がどうかしているのだと気付いていなかった。怖いんだと兄が言っても、意外と繊細なんだなという程度にしか受け止めていなかった。ジュンが着せ替え人形のようにミーちゃんの服に凝っていた時、いつも押し黙っていた彼の姿を思い出すと、今更になってジュンは申し訳なさを感じるのだった。
けれど、最近のキリウ君はそうでもないみたいだった。確かに当初は距離感を測りかねている素振りがあったが、いつの間にかそこそこ馴染んでおり、時にはジュンとは別の方向性で適当に彼女と遊んでいるようだった。ミーちゃんもキリウ君がかまってくれるから嬉しそうで、以前にも増してキリウちゃんキリウちゃんと纏わりついているのだった。
そういう光景を見ているとジュンは、これは有り得た未来なのかな、と不思議に思う。
そうだったらいいな……。
白い石畳がまぶしくなって、ジュンは俯くのをやめて前を見た。だだっ広い道路に沿って生えるまばらな街並みは、今日は息づく音が聴こえるかのように有機的に感じられた。太陽の光の具合がそうさせるのかもしれない。
「海いこー、海」
気の抜けた声と共に海浜公園の方へと続く石段を示したミーちゃんが、砂浜を歩くために選んだ靴のカカトを鳴らして一目散にそちらへ降りて行った。それを見送ったキリウ君は、ふいにジュンを振り返って不敵に笑った。ジュンが何も言わずに見ていると、彼は数メートル離れたところから唐突に走り出して、十段以上あるそれを一気に飛び降りた。
空中に身を投げ出した彼の空色の髪が雲一つない秋晴れの空に溶けていたのを、ジュンはたぶんずっと覚えている。写真が切り取っていなくても。