それからというものの、兄のキリウ君が彼女――ユコのところへちょいちょい顔を出し始めたらしいことをジュンが知ったのは、少し経ってからのことだった。
べつにキリウ君は、そのためにジュンを含む他のことを何一つとして疎かにしているわけでもなかった。なのになぜだかジュンは無性にそれが気になって、気になりすぎて、一体全体何をしているのかと訊くと、キリウ君は夕飯の支度をしながらしゃあしゃあと「他愛もないこと話したり、一緒にご飯食べたり、ハムスターとあそんだり、勉強を見たり」しているのだと答えた。
「見る? ハムスターの写真。トランくん」
「見ねーよッ」
ところでジュンは、彼女が学校に行っているという事実を今更認識して驚いていた。生産所生まれの子供はロットによって知能や学力に偏りが出てくるため、養護施設やその関連施設で自分たちに合った教育を受けるはずだ。ということは、彼女は生産所生まれではない普通の少女なのだろう。なぜか勝手に彼女が自分たちと同じだと思っていたジュンは、そのことで何かが変わるわけでもないが、勝手にどこかショックのようなものを受けてしまっていた。
そんなことはどうでもいい。とにかく、この時のジュンはあらゆることに対して穏やかではなかった。
だって、キリウ君はジュンの兄だからだ。ジュンだけの、優しくて考え無しで拘りが強くてカッパと深夜徘徊が好きな兄だからだ。しかしその前提がそもそも間違っているのだと気付かされて、ジュンは胸が苦しくなった。いや、気付くも何もジュンはずっとそれを捨てきれていなかった。だからジュンはキリウ君に訊けない、なぜだと訊けない、全ては彼の自由意志だからだ。彼はいま最もジュンに近い他人だった。それは兄だろうと同じはずだった。
では、このキリウ君にとってはユコもジュンも同じなのだろうか? 大切なキリウ君を失った者同士? ありえない、そんなことは認めない、ジュンの心から溢れ出すのは狭量そのものの言葉ばかり。それとも、とジュンは爪を噛む。この喉に引っかかるようなイヤな感覚は、かつての兄がたびたび取っていたジュンには理解不能な行動を目の当たりにした時のそれと似ていた。例えばネットで知り合った人に簡単に会いに行ったり、見ず知らずの人に金を貸し付けるような真似をしたり、年賀状を出さなかったり。他にも枚挙にいとまが無い。
つまり、同じ状況ならば『兄』も同様に、ジュンには理解不能なロジックでユコを助けようとしたのかもしれない。ジュンのように壊れてしまうかもしれなかったユコの心を。
だったら、それを嫌だと感じるジュンは只のひとでなしか!?
「ほんと、キリウ君の距離感ってよくわかんないんだよな。そんな……」
いきなり、だとか。誰とでも、だとか。ジュンはごちゃごちゃと全てを冗談じみて言いかけて、しかし全ての口を噤んでしまった。その全てが自分に跳ね返ってくることが解っていたし、それが怖かったからだ。最初に見つけたキリウ君をと言って、深夜の駅でシャボン玉のように浮かんでいた彼を本当に連れ帰ってきた、その狂気を他ならぬ彼本人から咎められることをジュンは恐れていた。
本当に狂ってる。
そうしてぐだぐだと雑談の体をして、ひたすら言いにくいことを避けながら独り言のように喋っていたせいで、むしろ言いたいことの確信の周囲だけをほとんど綺麗に掘り抜き終えた頃だった。
聞いているんだかいないんだか、ずっと適当な相槌を打ちながら手を動かしていたキリウ君が、コンロの火を止めて口を開いた。
「俺さー。ジュンはまだ迷ってるんだと思ってた」
キッチンに立ったままの二人の背後をミーちゃんがぽてぽてと歩いてきて、洗いカゴからコップや箸を取って持って行った。キリウ君は湯気が立つフライパンの中身をざっと大皿にあけて、それから冷蔵庫の中のプチトマトのサラダを取り出した。
「ぼくが、何?」
「夕飯食べよう。今日はマジで作った」
「どういうこと?」
キリウ君が差し出してきた大皿を受け取ったジュンは、その上に乗っているものを見て首を傾げた。それは何の変哲もない、以前からよく彼が作っていた炒め物のように見えた。しかしキリウ君が直接テーブルの方へ持って行った雪平鍋の中と手元の皿とを見て、ジュンはふと、あることに気付いた。
「これって……」
「わかる?」
三つ並べた汁椀にお玉で鍋の中身を注ぎながら、キリウ君はやけに嬉しそうにニヤニヤ笑っていた。その瞳の赤色もちょっと異様なくらいに鮮やかで、彼は今この時をどこか喜ばしくでも思っているようジュンには見えた。
白飯をよそってうきうきしながら「いただきます」と手を合わせた彼に引っ張られるように、ジュンも彼の態度に違和感を覚えつつも、その料理に箸を伸ばした。彼は自分で作ったくせに妙に物珍しそうにカボチャ入りの味噌汁をつついて、それから尋ねてきた。
「どう? 味」
――。
「おいしーよ! なんかね、前のキリウちゃんみたい」
ジュンより先に、隣のミーちゃんが満面の笑みでそう答えていた。
その通りだった。味だけではない、今日のこれは献立も盛り付けも全てが完璧に兄そのものだった。どういうわけかそれがあまりにも――あまりにも耐え難くて、ジュンは震える手で箸を置いて、その手で目元を覆った。
「ダメだった?」
キリウ君の穏やかなままの声は、まるでジュンが彼の作ったこれを生理的に受け付けないことをほとんど知っていたかのようだった。それは子供の反応を伺う親にも似ていた。ジュンは彼の顔を見ることができず、気が付けば、その場で机に額が着くほど頭を下げて謝っていた。
「ごめんなさい」
「そっか」
ゆっくりと、恐る恐る顔を上げたジュンを見て、キリウ君は困ったように笑った。そして自分もそれを一口食べて味を確認した後、ミーちゃんに向かって言った。
「ミーちゃん、食べたいだけ食べていいよ。残り、俺が食うから」
「わーい」
「ジュン、お茶漬け食べる?」
「……ぼくは」
もともと薄い食欲がもはや完全に失せており、ジュンは強張りっぱなしの首を横に振った。それよりも今はただ自分というものにうんざりしてしまって、キリウ君の気遣いも苦しくてたまらなくて、辛うじて崩れ落ちないだけで精一杯だった。
こうやって、きっとジュンは自分も他人も傷つけながらしか生きていけないのだ。わざわざ幸せをひっくり返して底に張り付いている虫を眺めるようなことを死ぬまで繰り返していくのだ。生きていてもこの先何もいいことは無い。ちょうど初夏の頃に、ひとりの闇の中で考えていたような邪念が次々と湧き出して、ジュンは今すぐにでも消えてしまいたい気持ちに駆られていた。このままならば近い未来、ジュンは兄がいた思い出までも一片残らず岩の底の虫にしてしまうだろう。いや、もしかしたらもうすでにそうなっているのかもしれない。
何も言わずに膝を抱えて突っ伏したジュンを、しかしキリウ君のそっとした声が呼び戻した。
「無理すんなよ。まだ時間が足りないんだと思う」
待ってるから、と付け足したキリウ君は微笑を浮かべたまま、半眼の上半分でこの世ならぬどこかを見ていた。
とっくに今更だ。彼が『キリウ君』という存在を通じて、ジュンさえ知り得ないジュンの無意識のことを当然のように把握していることなんか。それでも、彼がジュンを思いやって意図的に兄と違う食事を作ってくれていたのならば、それはもうそれで構わないと思えたのだ。
そして彼のその優しさは、つい先日知り合ったばかりの少女に対しても同様に。そうなんだろ? ジュンは何でもない素振りをして、ぐちゃぐちゃの頭の中を端から整理しながら、衝動的にキリウ君に訊いていた。
「あの子はこういうの、受け入れられてるのか?」
キリウ君は何の話かと一瞬考えたようだったが、質問自体には即答してくれた。
「ユコ? 彼女は受け入れてるし、割り切ってる」
あまりにもあっさりとした答えに面食らったジュンを見て、キリウ君は再び笑っていた。
「不思議だよな。彼女は、キリウ君が生きてた頃より甘え上手になったみたい。しばらくしたら、彼女の方から離れていくと思う」
なんだか他人事のようにそう言って、冷めきっていない味噌汁を再び口にした彼自身は、後から聞いたところによると、その味にジュンが想像していたよりもずっと特別な感情を抱いていたらしかった。