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15.傷心

 明くる日、ジュンがジャンク屋の前でミーちゃんと一緒にキリウ君を待っていたら、ばったりと見知った顔に出くわした。それは噂の危険人物、もといブチ切れ女のユコだった。もっとも、いまだにこの時ジュンは彼女の名前を知らず今日初めて知ることになるのだったが、わからないので頭の中ではそう呼んでいた。

 彼女がジュンに気づいて声をかけてきた時、真っ先にジュンの目が捕らえたのは彼女の目元の切り傷と手の甲の絆創膏だった。ジュンは最初、彼女が何かトラブルに巻き込まれているのではないかと思ったが、話を聞くとどうもそれはジュンが想像していた類のものと異なっていた。

 いわく、彼女のキリウ君が行方不明になったのだと。それも昨晩、一緒にコンビニに行った帰り道、突然キリウ君が虫のような姿に変貌してどこかへ飛んでいったのだと。だからキリウ君がいそうな場所を探し回っているのだと。

「あなた、何か知らない?」

 初対面の時とは打って変わって弱った顔をしている彼女をよそに、ジュンは内心パニックに陥っていた。彼女の話す異常な出来事を受け止めきれず、つい、ジャンク屋に行きそうだと思われているだなんてあのキリウ君はそんなところまで兄に似ているのだな、などとどうでもいいことに感心してしまっていた。

 キリウ君が接点だからこそ、彼女はこうしてたった一度きり会っただけのジュンに助けを求めているのだ。しかしジュンの記憶が確かならば、彼女は少なくともジュンよりは粘菌みたいな生物としての『キリウ君』、あるいはドッペルゲンガー絡みのいざこざについては詳しいはずだった。それでも共通の友人の繋がりが引き起こす感情なのか、この時のジュンは以前に自分を強襲してきたはずの彼女に対して同情的な気持ちを抱いており、自分が知っていることを話そうと思えていた。

「兄は逆さクジラがどうとか言ってた。逆さクジラが鳴くと、キリウ君は天使になるって」

 傍からどう聞いても正気ではないその情報に、しかし彼女は明らかに心当たりがある様子だった。彼女は爪先を見つめて幾らか思案した後、震える息とともにそれを受け入れていた。

「やっぱり本当だったんだ……」

 彼女は指を突き立てるようにして忌々し気に頭を抱えていたが、やがて両手に顔を埋めて言った。

「キリウ君、昔から言ってた。ずっと一緒にはいられないって。いつかナマズが迎えにくるって」

「クジラ、じゃなくて?」

「気にしないで。あの人テキトーだから」

 急にぴしゃりと吐き捨てた彼女にジュンはびっくりしたが、彼女はやはり項垂れたまま、ぽつぽつと低い声で続けた。

「天使なんかじゃない。いきなり道で倒れて……痛い痛いって騒いでた。私は救急車を呼ぼうとした。でもキリウ君はどんどん虫みたいになっていった。目が真っ赤でぎょろってなって、腕と脚がカチカチになってトゲが生えてきて、肌も真っ青になっていって。背中からたくさん、ハチの翅みたいなものが飛び出てきて、シャツが破けた」

 彼女が語るそれは、彼女のキリウ君の最期だった。言葉だけのそれがなぜかありありと想像できてしまい、ジュンは自分の血の気が引いていくのを感じた。

「天使なんかじゃない……。あんなことになるなんて、思わなかった」

 そのまま、二人ともしばらく無言でいた。恐らく、彼女のキリウ君はもう無事ではいないのだろう。彼が飛び去って行ったところまでしか見ていないはずのユコも、こうして捜してはいるが、心のほとんどの部分ではそれを確信しているようジュンには見えた。

 同じなのだ。ジュンは今の彼女の姿にかつての自分を重ねて気が塞ぎそうになっていた。なのに一方、ユコは暗く沈んでいた顔をぱっと元に戻して、再び食いつくようにジュンに訊いてきた。

「そうだ、あなたのとこは大丈夫だったの? キリウ君はなんともなかったの?」

 この時ジュンは、彼女が純粋にジュンのキリウ君の身を案じているらしいことを少し意外に思った。

「うちは大丈夫だよ。みんながいっぺんに天使になるわけじゃないって言ってた。キリウ君は……店の中にいるよ」

「ジャンク屋に?」

「うん」

 はは、と彼女は神経の端っこが崩れたように笑った。

「よかった……」

 どうやら心底そう呟いたらしい彼女の気持ちも、やはりジュンにはピンと来なかった。自分のところのキリウ君が狂った事態の渦中にいるのに、なぜ彼女は笑えるのだろう? 他のキリウ君のことを考えていて平気でいられるのだろう? ジュンは最初、それはそもそもキリウ君がたくさんいるものだという彼女の認識からくる感性なのだと想像していた。

 つまり彼女は、キリウ君ならば誰でもよいのではないか?

 ジュンがその妄想に憑りつかれた瞬間、すぐそこの自動ドアが開いて、店の中からぼこぼこ膨れたマイバッグを下げたキリウ君が出てきた。

「あ」

 眠そうにしているミーちゃん以外の、三人ともが呟いていた。

 キリウ君はこの状況をどう把握したのか、しかし、しばらくの後にふいっと彼女を見て名前を呼んだ。

「ユコ?」

 ひどく優しい声だった。

 初めて彼女の名前を聴いたジュンは、それがそうであることが判らなかった。ただ、そう呼ばれた彼女の目元がじわりと赤くなり、泣きそうになったのをごまかすように斜め下を向いたのを見て、ジュンは一度にそれ以上の色々なことを理解した。

 彼女は小声で「そうだよ」と答えて、滲みかけた涙を強引にまぶたで拭うと何ともない素振りでキリウ君に向き直った。けれど、夢を見るような目だとジュンは思った。それも、そんな目で見てはいけないと自制心を振り絞っている目。

 いったいキリウ君が何のためにそんなことをしたのか、ジュンは考えることを放棄した。そして固まっている彼女を助けるつもりで、横からそっと声をかけた。

「ケガ、どうしたの?」

「え!?」

 弾かれたようにジュンの方を見たユコは、ジュンの視線が目元の傷を見ていることに気付くと、まるで今思い出したかのように指でそこに触れた。

 よく見るとそれはただの切り傷というよりは引っかき傷で、ジュンは単に何かに引っかけたのだろうかと思っていた。しかし彼女は急に焦りだしたのか、しどろもどろになって口を開いた。

「あ、これ!? ちょっと……たぶんケンカ」

「友達と?」

「キリウ君と? 違う違う、ぜんぜん知らない人。今朝。ちょっと、なんか絡まれて。駅前で」

 彼女はなぜか右手の甲の絆創膏をジュンに見せながら、完全に必要以上の口数で説明しているようだった。

 三歩譲ってどこからキリウ君が出てきたのかはともかく、どうして知らない人から絡まれてケンカになるのかとジュンが戸惑いながら何も言えなくなっていると、彼女はそれを何らかの疑念として受け取ったらしい。ジュンは一瞬、彼女が初めて会った時と同じ剣呑さを漂わせたのを察知した。しかし彼女はすぐに空気が抜けたようになって、どういうわけか困った風に首を横に振っていた。

「なに? 私からじゃないよ。関係無いから……。じゃあね、ありがとう」

 口早にそう言うなり、彼女は最後にキリウ君とミーちゃんとを一瞥して、さっさとどこかへスニーカーの底を鳴らして駆けて行ってしまった。

 そんな彼女の背中を見つめながら、やっぱりちょっとヤバい奴なんじゃないか、とジュンは当初の彼女への印象の正しさを確信し始めていた。彼女のキリウ君による、彼女への「何もしないでね」などという評も。