作成日:

14.逆さクジラが鳴く夜

 ある真夜中のこと、ジュンが目を覚ますと家の中にキリウ君の姿が無かった。

 何も考えずに部屋着のまま外へ出たジュンは、しかし強く引き寄せられる何かを感じて、まっすぐにエレベーターで最上階へと上がった。

 この古めかしいマンションは十二階建てだ。ジュンが押したエレベーターのボタンは住人の誰かにコインで削られて文字が読めなくなっていたが、修繕費用が不足しているので当面はこのままだろう。黒ずんだコンクリートに囲まれた天井の低いエレベーターホールは昼でも薄暗いのに、深夜ともなると電気が点いていても端々が暗黒そのもののように感じられるのだった。

 風の通る外廊下に出ても閉塞感が続くのは、手すりの上の空が金網に閉ざされているからだ。過去に何人か飛び降りた人がいたせいで、三階より上のフロアは全て後付けでそうされている。ジュンが吸い寄せられるようにその隙間から外を窺うと、案の定、向こう側の非常階段にキリウ君が立っていた。

 彼はジュンが小走りに駆け寄ってくる足音に気づいてか、星を見るのをやめて手すり越しにジュンに手を振ってきてくれた。

「どうやって出たんだよ……」

 ジュンが自分とキリウ君とを隔てているアルミ色のドアを小突いて尋ねると、キリウ君は無言でジュンを手招きしてきた。どういう意味なのか解らずジュンは少し戸惑ったが、ふいにピンときてドアノブをひねって引くと、いや押すと、それは施錠などもされておらず簡単に開いた。

「あ、非常階段か」

 そんなジュンの呟きを聞いて、キリウ君がやはり無言でニヤニヤしていた。こんなものを触ったこともないジュンと違って、気まぐれな彼は何度かここから非常階段に出たことがあるのだろう。しかし、他の住人が使っているところすら一度も見たことが無かったジュンは不思議な気持ちになった。それからジュンが念のため外側から扉が開かないことを確認している間も、彼は微笑ましげに後ろから眺めてくれていた。

 非常階段には例の金網は無く、それだけで剥き出しの空と隣り合わせのようだった。久しぶりにこの建物の上で息をつける気持ちになって深呼吸をしていたジュンの横で、キリウ君は屋上への階段に続く高いドアの前に立っていたが、彼がそのドアノブに手をかけるとこれもまたすんなりと開いた。開け放ったドアの向こうへ足音も立てずに走っていくキリウ君の背中を追いながらジュンは、さすがに何かおかしいような気がしてきていた。が……夜風が気持ちいいのであまり気にしなかった。

 行き着いた屋上は、防水加工された一面のグレーの真ん中に種々のアンテナが並んでいるだけの殺風景な平面だった。ここは近辺では背の高い部類に入る建物であるために、柵の無い縁に寄ると周りの建物の似たり寄ったりの屋上がよく見えた。

 キリウ君は何をしているのかとジュンが見ると、彼は真っ黒な空をただ遠い目で見上げていた。空を照らすほど明るくはないが、星が見えるほど暗くもない、そんな黒い空だ。その背中に向かって、ほとんど独り言のようにジュンは尋ねた。

「何か見えるの?」

 彼はジュンを見ずに答えた。

「逆さクジラを見てる」

「逆さクジラ?」

 ジュンは思わず訊き返していた。初めて聞く言葉に戸惑っていると、キリウ君が微かに緊張しているような声で言った。

「今日は逆さクジラが鳴く日だよ。逆さクジラの声を聴いたキリウ君は天使になって、あいつのエサになる」

 天使――。

 とは。

 にわかに自分の心臓がうるさくなりだしたのをジュンは感じていた。またしても嫌な予感が噴き出していた。どうにも最近はオカルトじみた出来事が続いており、心がぜんぜん落ち着かないのだった。うんざりしながらも、しかし置いていかれるわけにはいかず、ジュンは覚悟を決めてキリウ君が見ている方を一緒に見た。

 果たしてそれは想像以上に近くに『いた』。キリウ君は先程から首を少し軋むくらい上に向けていた。それはつまり――ぞっとしてジュンが周囲を見渡すと、辺り一帯には闇夜の中でなお視認できるほど巨大な影が落ちていたことに気付いたのだ。ふたりが屋上に上ってきた時、それはすでにそこを飛んでいたのだろうか? 非常階段でひとり、キリウ君はこれを見ていたのだろうか?

 そして、姿形もわからない影だけの存在であるそれが、確かに鳴いたのだった。遠い遠い声で。

 逆さクジラが放った強烈な念波に当てられて、ジパング市じゅうのキリウ君が共鳴する。目の前が真っ白に焼き切れるような錯覚に襲われながら、咄嗟に隣のキリウ君の腕を掴んだジュンの手を、キリウ君はそっと振りほどいていた。