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12.非実在電波少年キリウ君を捜しています

「引っ越したいんだよね」

 というジュンの観測気球的な呟きに、キリウ君は好意的な反応を見せた。

「いいんじゃない?」 

「ちょっと遠いとこに……」

「うん」

 この時キリウ君は、ベッドに仰向けに転がったまま器用に年季の入った文庫本をめくっていた。先程からずっとそうしていて姿勢を変える様子も無いので、いったいどうなっているんだろうとジュンは思っていた。

 なんなんだ本当に。近頃のジュンはなんとなく、キリウ君というのはもしかしたら咎浜区あるいはジパング市の怪異みたいなものかもしれないと疑い始めていた。だからこの土地から引き離そうとする提案は嫌がられるのではないかと予想していたが、ハズレだったようだ。理由すら訊いてきやしない。

「て言っても、まだぜんぜん具体的なプランは無いし、お金も無いんだけどね……」

 ぼやいたジュンに向かって、ふへへとキリウ君が気の抜けた様子で笑った。これは何ら怪しいニュアンスではなく、単に兄がよくやる、良い意味で何も考えていないときの笑い方だ。

 もちろんジュンは、キリウ君の反応を探るために引っ越しだなんて大事を言い出したわけではない。本当は、兄がいなくなってからずっと漠然と考えてはいたことではあったのだ。ただ、当面は誰にも言うつもりではなかったそれをふいに口に出したくなったのは、死体を近くで見たせいかもしれない。

 言えることは言えるうちに言っておこうと思ったというだけの話だ。いつだって未練は少ない方が良いし、望みは多い方が良いのだった。

「なんかさ、キリウはどういうとこに住みたいとかある?」

「俺に訊くの?」

 ジュンが当たり前のようにキリウ君を見つめていると、キリウ君は日に焼けた表紙をぱたりと閉じて即答した。

「じゃあ、海の近く……」

 と思いきや、彼は急に布団から起き上がってしばらく思案していた。それから唐突にジュンに尋ねてきた。

「潮風がミーちゃんの関節に悪かったりすんの?」

 砂粒ほども気にしたことが無かった事項が彼の口から出てきて、ジュンはびっくりした。

「大丈夫だよ。前に連れてったとき何も言ってなかったし」

「そういう感じなのか。あの子」

 あの子、と言葉を選んだ気配があったキリウ君の視線は、座卓の前でうつらうつらとしているミーちゃんに向けられていた。彼女のきれいな髪に隠された両耳の穴からは今、そこに似つかわしくない黒いケーブルが垂れ下がっており、彼女はその先に繋がった箱型の装置を両手で抱えていた。バックアップ等の定期ジョブ中のミーちゃんは停止しているわけではないが頭が働かないらしく、いつもこのような感じだった。

 それにしてもいつもより時間がかかっているような気がしてジュンが調べると、どうもネットワークの帯域が圧迫されているために修正プログラムのダウンロードが遅延しているようだった。大したデータ量ではないはずだが、週末の昼下がりなのでこの建物内でもネットが混み合っているのだろう。恐らく自分のところがその一因であることを思い出すたび、ジュンはむしゃくしゃした気持ちになる。

 他人に迷惑をかけずに生きていくにはどうしたらいい?

「いつになったらできるのかな。引っ越しなんて……」

 再びジュンがぼやくと、キリウ君は優しげな微笑を浮かべて言った。

「いつでもいいんじゃない? 俺ら、まだ生産所離れもできてない感じじゃん」

 キリウ君がひっくり返した文庫本の裏側には、施設の貸本だったことを示すシールが貼られている。元々この本は、ちょうど図書室の蔵書整理の時期に施設を出た二人への餞別にと、親しかったスタッフが譲ってくれたものだった。それも本を読む子供がめっきり少なくなったからと言って、一冊や二冊ではなく箱いっぱいに貰えてしまったのだ。おかげさまで特に気に入った本を繰り返し読む質のキリウ君は、二年経った今でもカッパが出てくる児童文学を楽しそうに読み返している。

「それは違いない……」

 そう言った後でしかしジュンは、今のキリウ君のIDは生産所に登録されていたものとは違うのだが、と心の中で呟いた。このキリウ君は兄の代わりをしてくれるのはよいのだが、社会的には兄本人ではない別個体である以上、そこに根付いたパーソナリティを再現されるのはたまに違和感が拭えないようジュンは思っていた。

 ――それにしても、こうして見た目と中身がほぼ同じ別人を平気で兄の代わりにして生活しながら、あまつさえ間違い探しのようなことをしているジュンもかなり神経が狂っているのだろう。実際、彼のおかげでジュンは心身の調子をほぼ完璧に取り戻すことができていたが、それは傍目にこの事態を把握して異常性を指摘してくれる人がいないからだ。仮に今更そんな人が現れたとしても、正気を保つために狂気に走っている自覚のあるジュンを止めることはできない。

 現実的に考えて成人するまではどうしても難しいのではないか、とジュンはキリウ君をよそに一人で引っ越しに関する結論を出した。そもそも自分たちはジパング市の人口政策で生み出された身分だ。その政策を受けて生産所の実験を行っているのは区だけれど、どちらにせよそうやって手間暇かけて増やした労働人口を簡単に流出させるわけがないのだった。実際、ジュンがいまいち他所で『自立』できる気がしないほど自治体による補助が手厚いのは、当人たちにそう思わせる狙いもきちんとあるのだろう。

 そこまで考えたところで、ああ、とジュンは息を吐いた。実のところ、ジュンは自分が引っ越したい理由がよく分からないままずっとそれを検討していたが、たぶん、単にこの街があまり好きではないのだろう。そして、その気持ちさえ反抗期か何かのようで、くだらなく感じてしまうのが本当に怠いのだった。

 そうしてあーだこーだとジュンが一人で思い悩んでいたその時、玄関のポストがパタンと開く音がした。

 ミーちゃんの隣で座卓に突っ伏していたジュンより先に、キリウ君が取りに立っていた。しばらくしてポストの中身を手に戻ってきた彼は、無言でジュンの前に一枚のチラシを差し出した。

 それは白い紙に黒い文字だけが入った簡素なチラシだった。しかしそこに不愛想な明朝体で打ち出されていたのは、『非実在電波少年キリウ君を探しています』で始まる奇怪な文章だった。

 

『非実在電波少年キリウ君を捜しています。
 ハンドブレンダーでソースにして以来、レシピが分からなくなっています。
 年齢は十四。脳みそは綺麗な灰色。
 見ていると泣きたくなるような青い髪の毛、缶詰のチェリーのような赤い瞳。
 ベクトルの計算ができない。クソ映画を見つけると喜ぶ。
 一目見て、情が無い人間であることがわかる。
 上手に焼けたホットケーキを持って逃げました。
 今もこの街のどこかで彼は私たちを皆殺しにする算段を立てています。』

 

 ジュンはそれを目にした瞬間、無意識に息を殺して耳をそばだてていたが、キリウ君は察したように首を横に振った。これを入れた人は既に立ち去ってしまっていたらしい。

「他の家にも入ってたぜー。電柱に貼ってあるのも見た」

 何が面白いのかキリウ君は先程までとは異なる薄ら笑いを浮かべていたが、そんなことはどうでもいい。ジュンはチラシをくしゃくしゃに丸めながら、一つだけ確認しておきたくて彼に尋ねた。

「この人が探してるのは、キリウ君だと思う?」

 ここで言うキリウ君とは、もちろんこの家でジュンと一緒に暮らしているキリウ君のことだ。非実在だとか電波少年だとかいうわけのわからないキリウ君ではない。ジュンの言葉を訊いた彼は、どこか不思議そうに首を傾げていた。

「俺を探してる人なんかいないよ」

 その言い方にジュンはまた違和感を覚えていたが、それが何であるかは分からなかった。

 ただジュンは、つい最近まで気がおかしくなりかけていた自分を思うと、なぜか手の中に丸め込まれたそのチラシが他人事ではないような気もほんの少ししていたのだ。他の全ての文章の意味が全く解らなくても、キリウ君を捜していますというその言葉を吐くに至った気持ちだけは、この街のほとんどの人間よりもジュンは理解できているのではないか。

 誰かがまた大切なキリウ君を失ったのかもしれない。そう思ったのだ。