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11.シャボン玉飛んだ

 ミーちゃんと二人きりで散歩をするのはしばらくぶりだった。彼女は自分ではどこへ行きたいとは一切言わないが、ジュンが連れて行くならばどんな場所でも実に楽しそうに着いてきてくれるので、眺めているととても癒される。

 まさに理想の人形だ。人形だからこそ理想を体現してくれるのだろうが、それがジュンは嬉しかった。ジュンは他人に心を許すことがヘタなせいで他人と関わっているとすぐに疲れてしまうが、真に独りでいることには耐えられない、そんな少年だった。そこで孤独に狂って変なこと(メンバー募集してバンド・漫才コンビ・アーティスト集団を結成する等)をしてしまう自分も容易に想像できたから、施設を出て今の住処に移ると同時にミーちゃんを購入した。販売者に頼み込んで分割払いにしてもらってまで。

 それが暗に示すのは、ジュンは兄をそのよすがにしてはいけないと心のどこかで思っていたという望みだ。しかし現実としては、ジュンは兄とともに自分も失ってしまった。正確にはもう少し複雑な機微がありはしたが、結果としてそうなってしまったのだから仕方がない。そしてその上でやはりジュンは、すでに彼女を頼りにしてしまってもいた。

 ただの甘ったれだな、とジュンは彼女の隣を歩きながら自嘲した。それでもジュンは彼女と共にいることで、一昨日の夜の出来事から淀み続けていた気持ちをいくらかリフレッシュできたようだった。

 昨日今日のジュンは少し憂鬱だった。

 落ち込んでいた。ジュンがキリウ君の死体を見たのは二度目、いや初めてだった。御座なりな言葉だけで説明され、幾度となく悪夢の中で思い描いてきた、一目見ることも叶わないことに絶望し、見なければならないのに見たいわけがない、それを形だけでも実際に目の当たりにしたのは、状況は違ってもジュンにとっては衝撃的だった。しかも今回は、ジュンのキリウ君がああなっていてもおかしくなかったのだ。なのに――。

『多かれ少なかれこいつらは皆同じことを考えていると確信した』

 どのような話の流れで聞いた言葉だったか、SUVで連れ回されていた間のジュンの記憶はすでに煙り始めている。ただジュンはあの夜、兄の影をひどく毀損されたような気持ちになった。他のキリウ君を押しのけて自分がキリウ君になるだとかどうとか、何の意味があるのかさっぱり解らない。なのに――。

 キリウ君を殺したのもまたキリウ君だった。何の躊躇いもなく。

 あの時、なぜと訊けないジュンを宥めるかのように、キリウ君は「そういうものだから」と一言だけ呟いた。

 そういうものだと言われたら、そうなのかもしれない。ジュンは、夜の闇の中で一瞬だけ対峙した二人のキリウ君の姿を覚えていた。ジュンの目には、互いに初めて顔を合わせたはずの彼らが、どこか共通の了解を持って闘争に臨んでいるかのように映ったのだ。たとえそれがジュンの想像力が補った産物にすぎなかったとしても。

 だからそういうものだと言われたら……。

 そういうものだと言われたら……。

 しかしどういうわけか最もジュンの頭に焼き付いて離れなかったのは、あの運転席の男の暗い目だった。

 ことが終わったあと、キリウ君(B)に奪われていたジュンのスマホをキリウ君(A)が回収しようとしたとき、いつの間にかキリウ君(B)のそばにあの男が立っていたのだ。彼は放心した様子で何も言わず、頭をかち割られて血の海に沈んだキリウ君(B)をただ暗い目で見下ろしていた。キリウ君(A)はそれを気にも留めずキリウ君(B)のポッケを探っていたが、目的を果たして離れようとした時、ふとキリウ君(A)が男の顔を一瞥した。おそらく、目が合っていたようジュンには見えた。それからキリウ君は小走りでジュンの元に戻ってきて、背中に銀色の翅を出現させると、ジュンを担いでふわりと宙に浮き上がった。

 夜風の中をキリウ君に抱えられて飛んでいる間も、ジュンはずっと考えていた。あの男はジュンのキリウ君と目が合った時、果たして何を思ったのだろうかと。彼は一見すると彼のキリウ君をぞんざいに扱っているように見えたが、本当に自分が迷惑を被ると思っていたならば、あのようにぐだぐだとキリウ君とつるんだりなんかしないはずだとジュンは思っていた。

 そうだとしたら、ジュンがあの男に対して抱いた気持ちは同情なのだろうか。

 ジュンはまた、図書館のユコと彼女のキリウ君のことを思い出していた。

『あなたにとっては知らないキリウ君かもしれないけど、私にとっては友達だから』

 そうだとしたら、ジュンはいったいどういう顔をしてキリウ君と共にいればいいのだろうか。

 

  *  *  *

 

 何針か塗ってもらった頭のケガは今のところ吐き気や違和感も無く、しばらくは様子を見る必要があったが、あまりジュンは不安には感じていなかった。キリウ君がすぐに空を飛んで病院に連れて行ってくれたおかげで、適切な処置を受けることができたのだ。しかし医者に正直に事情を話すことはどうしてもできず、バットの素振りが当たったのだと嘘をついてしまった。その点にやや不満そうだったキリウ君の様子に、包み隠さずに話したらキリウ君も面倒なことになるのになと少し意外に思ったジュンだった。

 市営の古めかしくてバカでかいマンションにジュンとミーちゃんが戻ってきたとき、エントランスの外にジュンのキリウ君がいた。夜の闇の中だとまだ怪しいが、日中ならば遠目に間違いなく彼がジュンのキリウ君だと判るのは不思議なことだった。

 思えば近頃のジュンは、兄以外のキリウ君に何人も出会ってきた。兄が生きていた頃に彼らに会えなかったのは、おそらく自分の目に見えていなかったからではないかとジュンは推測していた。人は見たいものしか見ない、と昔の偉い人が言っていたらしい。兄を失ったことがきっかけで、キリウ君を求めるジュンの気持ちがもともとこの街に居たキリウ君たちを見せるようになった、それだけなのかもしれない。

 キリウ君は古びた柵に座って、なぜか一人でシャボン玉を吹いていた。その姿を離れたところから眺めていると、ジュンは全身に満ちていた緊張がじわりと解けていく感じがした。それは初めて見たのに見慣れた彼だった。兄はいつもデタラメで、唐突にそういうことを始めるところがあった。

 彼は帰ってきたジュンに気づくと、いつも通り笑って「おかえり」と言った。それを見てジュンは、やはりあれは正当な行為だったのだ、と思い直した。やりすぎだったとしても、引きずるべきではない。だってジュンはあいつらに殺されかけたのだから。