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10.キリウ君ごろしの巻

 車は街の中心部を離れて、街灯も建物も少ない開けた道をひたすら流したり停まったりしていた。荒事のわりに運転自体は穏やかだったせいか、疲労からくる眠気と強いストレスとでジュンの意識は曖昧で、ずっとどこか悪夢の中にいるようだった。唯一確実なのは、ジュンは二時間近く彼らに連れ回されていたということだ。

 ジュンを監視するように座っているキリウ君が、時折思い出したように早口に喋っていた。「あんたにこれ以上迷惑かけらんないし」「適当なとこ降ろしてくれたらあと頑張るから」「今更キリウ君じゃないやつ一人くらい殺したって同じだし」このキリウ君の言うことは段々と物騒になってきており、基本的にはそれに同調しているらしき運転席の男の態度も妙に淡々としていて不気味だった。

 ガムテープで縛られてリアシートに転がされたまま、ジュンは彼らに何回か話しかけた記憶がある。誰にも言わないから降ろしてといった普通の要求を含め、ほとんどは嘲笑され碌な返事が無かったが、最後の一つだけはそうではなかった。なぜキリウ君を狙うのか、なぜキリウ君を殺すのか――それを訊かれた時、運転席の男はさも当然といった様子でこう答えた。

「逆にお前は何とも思わないのか? オレは最初、自分の頭が狂ったのかと思った。だが違う。狂っているのはこいつらの存在だ」

 それを聞いてキリウ君が、男が言う「こいつ」が自分であることを主張するように肩を揺らした。彼は先程からずっとジュンの向こうの窓越しに外を見つめており、物憂げにしているかと思えば急にニヤニヤ笑ったりと様子がおかしかった。

「同じ人間が何十人だか何百人だか存在していること自体がそもそも異常だ。実際、現場を誰かに見られたもの以外で、オレ達がしていることが報道されたりマトモに捜査されたりしたことは一度も無い。貴様の兄とやらもそうだったんじゃないのか。だから殺すこと自体は大した問題ではない。それを前提として――」

 そっと身体を起こしてルームミラー越しに男を見たジュンは、彼が恐ろしく暗い目をしていることに気付いた。ジュンのその動きをキリウ君が特に咎めてくることも無かった。一方から見えるということはもう一方からも見えているはずだが、男は前方を見つめたまま他人事のように息を吐いて、逆にジュンに尋ねてきた。

「お前は信じるか? こいつがこの世で最後のキリウ君になった時、こいつこそがキリウ君として実在できるのだと言ったら。まあ、こいつが勝手にそう言っているだけなので真偽はオレの知ったことではない。けれど実際にやってみてオレは、多かれ少なかれこいつらは皆同じことを考えていると確信した。だからこんな暇潰しに付き合っているんだ」

 固まっているジュンの隣で、いよいよキリウ君がケラケラと声を上げて笑っていた。キリウ君ごろしだ、キリウ君ごろしだ。子供のように笑う子供のキリウ君が、邪悪な言葉を吐いている。

 意味が解らなかった。

 狂っているのはこいつらだ。ジュンの頭の傷が再び痛み始めて、喉の奥が熱くなった。おそらくジュンが何を言っても彼らは彼らの所業をやめることは無いだろう。放っておけばキリウ君が危ない、今この場で刺し違えてでもこいつらを――そうジュンが別の決意を固めようとした時だった。

 運転手の男が何か言おうと口を開きかけたと同時に、外で空気を震わすような低い電子音が響き、それからルーフの上に何か重いものが落ちてきたかのような鈍い音が聴こえた。

『おい!!』

 頭上から叩き付けられた、ルーフに遮られてくぐもった怒鳴り声はキリウ君のものだった。

 ここの殺人キリウ君(B)ではない。ジュンのキリウ君(A)のものだ。あの電子音も彼の翅のものに違いない。弾かれるように顔を上げて見回したジュンは、少しの後、ちょうどルーフから身を乗り出して車内を覗き込んでいる逆さまのキリウ君(A)と目が合って思わず悲鳴を上げた。幸か不幸かそれが車内の視線を集めた一瞬、外のキリウ君(A)が運転席のドアガラスの端をハンマーで叩いて粉々に粉砕した。

 細かなガラスの破片をかぶって、運転手が大きな舌打ちをした。直後、更に割れた窓の上方から車内に勢い良く突っ込まれたビニール傘が、男の手を掠めてステアリングの隙間にねじ込まれていた。操舵できなくなったことに気づいた男がブレーキを全力で踏み込んだため、シートベルトもつけずにいたジュンとキリウ君(B)は反動をモロに受けて吹っ飛び、前方に身体を叩き付けられた。特に真ん中にいたキリウ君(B)は運転席と助手席の間をすり抜けてインパネに頭を強打したらしく、「ぎゃん」と獣のような悲鳴が聴こえてきた。

 滅茶苦茶に停止した車の中で、シートの足元に嵌り込んだジュンは赤い目を白黒させながら、縛られたままの身体を無理やり起こそうともがいていた。しかし運転席の方で何やらガタガタと、罵り声や内装が破壊される音が断続的にしていたかと思うと、突然ジュンのすぐ近くで車のドアが開いた気配とともに、ジュンは誰かに強く脚を掴まれて思いっきり引っ張られていた。

 背中からアスファルトに叩き付けられた後、ジュンの顔を覗き込んで声を上げたのはキリウ君(A)だった。

「ジュン!?」

「あ……」

 ジュンは、それがどちらのキリウ君であるかを一瞬でも考えた自分を恥じた。即座に伸びてきた彼の手が、ジュンの腕を縛っていたガムテープをべりべりと力ずくで引っぺがし始めた。

「なに誘拐されてんだよ、帰るぞ!! 頭、ケガしてるのか?」

 ブチ切れているキリウ君の顔を見た途端、ジュンはこの夜ほとんど感じていなかった恐怖を一気に思い出した。側頭部から左肩までが乾いた血でべたべたに汚れていることも、初めて気づいた。ジュンは帰れなくなるところだったのだ。点在する街灯の光以外にはほとんど真っ暗な川沿いの道路に自分がいたことに気づいたジュンは、急激に背筋が冷たくなった。

「どうして(ここに)?」

「人形がダウジングしてくれた。すごいのな、動くの速いから車ってこともすぐに判った」

 人形とはミーちゃんのことだ。ミーちゃんにはダウジングによる探し物機能が搭載されており、門限を破ってほっつき歩いているガキを探すことなど朝飯前だ。

 脚を縛っていたガムテープを自分で解き、ジュンが振り返ると、運転席の窓からは更に何本ものビニール傘の柄が飛び出していた。キリウ君が抱えてきたのだろうか、あんなものを車内で全部開かれたら確かに邪魔だし、どさくさに紛れて運転席からドアロックも解除したらしい。

 しかし長くは持たないはずだ。案の定、車内からキリウ君(B)の吠え声が響くとともに、助手席のドアが乱暴に開け放たれる音がして、キリウ君(A)が据わった目で車体の影を睨んだのがジュンにも分かった。一呼吸置いてそれはすぐにやってきた。

「てめえ!!!」

 叫び声とともに、何の小細工も無い全速力で――レンチを片手にキリウ君(B)が飛び出してきていた。ジュンはそれを正面から捉えたが、鼻血を流したままの彼の血走った視線の先にいるのはキリウ君(A)ただ一人だった。そしてジュンがあっと声を上げた瞬間、キリウ君(A)がキリウ君(B)の勢いを躱して、素手でいとも簡単にアスファルトに叩き伏せていた。

 この時、ジュンは本当にガッツポーズしたいくらい喜んだのだ。

 しかしキリウ君(A)はそのまま流れるような仕草でキリウ君(B)の手からレンチをもぎ取ると、キリウ君(B)の頭に一切の躊躇いも無く全力で振り下ろしていた。

 息を飲んだジュンの目の前で、キリウ君(A)は何度も何度もキリウ君(B)にレンチを叩き付けた。血が止め処なく噴き出し、頭蓋骨がパキッと音を立てて陥没して、ようやくキリウ君(A)はそれを止めた。それから肩で息をしながらジュンを見た。空っぽの心で、薄ぼんやりした赤い瞳で。